『新古今和歌集』

新古今和歌集

  新古今は2000首の和歌が収められており、全部に目を通すのは大変である。後鳥羽院が、すべてを暗記していたとすれば凄い。(古代口承の稗田阿礼のように、韻律・リズムで謡い記憶したのか)春夏秋冬から神祇・釈教まで20卷の配列も、重層的で凝っているというが、いまは触れない。いくつか感想を述べる。
   ① 古今に比べ春夏より、秋冬の歌が多い。「心なき身にもあわれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ」(西行)などの「三夕の歌」など、斜陽・敗北・没落の貴族階級の自意識が強い。
   ② 藤原良経の「仮名序」は、和歌の政治化、和歌=劇場国家、和歌の制度化の色が濃い。だが、「読み人知らず」を避け、歌人のプロ個人化という二重性がある。同時に、古典主義の形式化と、内容の新鮮さの二重性を持つ。
   それはテーマ的には「本歌取り」う和歌の二重性や、言語における「掛詞」や「縁語」という言語の二重性で表現されている。本歌取りでは「うちしめりあやめぞかおる郭公鳴くや五月の雨の夕暮れ」(良経)、掛詞・縁語では「思い出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れがたみに」(後鳥羽院
   ③ 女性が三分の一を占める。ポスト女房文学の影響か。同時に男性が女性になって、恋を歌う倒錯性も多い。「思い出よ誰がかねごとの末ならむ昨日の雲の跡の山風」(藤原家隆)女性の歌「露払ふ寝覚めは秋の昔にて見果てぬ夢に残る面影」(俊成卿女)
   ④ 不在なもの、空虚なもの、失われたもの(失恋の美学)、来ない人(待つ美学)、夢の美学などに秀歌が多い。「花は散りその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る」(式子内親王)「風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」俊成卿女)
    ⑤ 慈円にしろ、鴨長明にしろ、西行にしろ、仏教的な浄土観は薄い。あくまでこの世的であり、無常観や幽遠は薄い。この世的美学であり、浄土教的ではない。天台座主慈円は「歴史的因果・発展史観」を書き(「愚管抄」)後鳥羽の天皇親政・貴族の反乱(承久の乱)に反対だった。和歌に傾倒し、脱政治、脱宗教という矛盾の持主だった。「野辺の露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻の上風」(慈円
      ⑥ 「万葉集」が、現実体験を基盤に歌われているとすれば、新古今はホモ・ルーデンスホイジンガ『中世の秋』『ホモ・ルーデンス』参照)によるイメージの「仮想現実」の人工的世界を歌っているといえようか。在地武家階層という新興勢力台頭の時期に現れた「敗北の美学」である。
(新潮日本古典集成・久保田淳『新古今和歌集』、小林大輔『新古今和歌集角川ソフィア文庫