ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者』

ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者』


      面白い本である。サルトルニーチェロラン・バルトという三人の哲学者がどうピアノを弾いたかを論じながら、3人の哲学との関連や、音楽論まで横断して考察している。
      3人とも独自のピアノを弾くアマチュア演奏家だが、その弾き方に哲学があると、ヌーデルマン氏はいう。サルトルはメロディに、ニーチェは音色に敏感であり、バルトはリズムに鋭敏だった。
      いずれも、シューマンショパンというロマン派のピアノ曲を演奏した共通性がある。身体で音楽と寄り添う生理学まで立ち入っている。サルトルやバルトは、少年期の母親と結びついている。
      サルトルは上達しないショパンを女性に弾くのを好む。「弁証法的理性批判」や「想像力の問題」「嘔吐」を書き、現実参加を行動でおこなうサルトルが、ピアノ演奏の留保で、逃避、脇道、排他的情熱、身体の音楽的情熱といった例外を許すことで、日常を変えていったとヌーデルマン氏は述べている。社会、暴力、言語、レジスタンスに対して、オフビートを、想像力を、女性を必要とした。
      バルトは、ピアノを弾くと「何かが勃起する」という。ピアノ演奏は、コード、言説、ドクサ、同時代性からの出口を示し、メランコリーを癒し慰めるロマン派を再評価した。治療師や母親役と共に、日常の離脱であり、避難である留保が生まれた。
      美しく繊細な手で弾くニーチェは、70曲の作曲をし、音楽家に憧れた。記号や思想とは別の世界、重苦しい世界を一変させ、生の賛歌という救済を求めた。ゲルマン的なワグナーに傾倒したのち、否定に傾き、地中海人に憧れ、ビゼーカルメン」への傾倒に変わる。
      ニーチェにとって、ショパンは、イタリア的な軽快さ、明快さ、気品に満ちていた。「ツァラトゥストラ」の生理学的音楽性の分析は面白い。
      哲学者の「音楽的身体」が、いかに哲学と関わったかと同時に、ピアノという楽器論や、言説に表現さえない音楽現象学についてのヌーデルマン氏の分析は鋭い。ピアノを弾いたアドルノヴィトゲンシュタインといった哲学者についても、知りたくなった。(太田出版、橘明美訳)