川崎賢子『宝塚というユートピア』

川崎賢子『宝塚というユートピア

     宝塚歌劇団は、2014年に創設100年を迎えた。昭和モダニズムを研究する川崎氏は、モダニズム文化に「伝統」を産み出す力があるという視点で、宝塚歌劇の歴史から、演劇論、ジェンダー論、劇団組織論など広く論じている。
     私事ながら、私も80年代に東京宝塚劇場三階席に通い、女の子に囲まれ舞台に熱狂した。「どこにもない場所」における「性を超越」した男役の歌と踊りのドラマ・群舞に見とれた。宝塚には「どこにもない場所・性への郷愁」がある。
     川崎氏は、小林一三の阪急交通圏における田園都市ユートピア構想と、百貨店の消費文化のなかにおける大衆文化空間(デズニーランドより広大なものか)を、結合させたところから始めている。レビューかオペラか、ミュージカルか演劇かの、多重性に揺れる宝塚の歴史を辿るのも面白く読んだ。日本モダニズムの混成体としての宝塚文化である。
     川崎氏が指摘する二つの宝塚の発明は、重要だ。第一は宝塚音楽学校の存在だ。女優養成所やタレントのアマチュアリズムでなく、タカラジェンヌは俳優でなく「生徒」なのだ。学校をモデルに同性だけの集団が。上級生から下級生に口伝・秘伝をつたえ、すべての生徒がスターである学校共同体である。、
     未婚であり、一定期間がきたらトップも卒業=退団していく。(AKBは模倣したのかな)ファンクラブは、母親のような保護者である。
     第二は性=ジェンダーを超越した「男役」の発明である。川崎氏の男役論は、歌舞伎の「女形論」(渡辺保氏など)に匹敵する。川崎氏は、男役が娘役を演じる「ベルばら」のオスカルや、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラを「宝塚の逆説」という。
     生まれつきの「性」からの解放感は、「エリザベート」のも見られると思う。それは倒錯を乗り越えている。「男女合併のレビュー」についてのレビュー、つまりメタレビューという意見に賛成だ。
     いま、学校、家庭、地域コミュニティ、消費文化など近代を支える装置が揺らぎつつある。歌劇団の基盤になる共同体の動揺は、宝塚にどういう影響を与えていくのだろうか。川崎氏は、退学になった生徒が裁判に訴えたことを挙げている。(岩波新書