ギルマン『現代演劇の形成』

リチャード・ギルマン『現代劇の形成』

     20世紀現代劇は、ギリシア悲劇以来の伝統演劇の革新を「反演劇」といっていいような極限まで推し進めた時といってもいい。ギルマンは、ビューヒナーから、イプセンストリンドベリチェーホフ、ピランデルロ、ブレヒトベケットハントケの8人の演劇作品を取り上げている。
     私が以外だったのは、19世紀半ばのビューヒナーを革新の始まりとしていることだ。ベルグのオペラ「ヴォイツェク」で有名だが、岩波文庫で「ダントンの死」を読んだことがあるが、深くは知らなかった。勿論舞台を見ていない。だがギルマンは、運命や歴史的必然という因果関係のドラマストーリーを排除し、状況に屈服されない言葉にならない、実現されない可能性の演劇行動を描き出す。いじめられ疎外される受難の人物を、「意味」の発展としての演劇でない作劇法で創る。
     イプセンの演劇は、劇の内容が時間経過の法則に従わず、即刻、その時にそこに現前するドラマ、開始のときに結末を含むドラマを書いたという。ストリンドベリは「父」「令嬢ジュリー」などの作品があるが、登場人物の発展的会話のやりとりという既成の演劇文法を壊そうとした。心の分裂の劇は、不連続、断片化、矛盾の世界に成る。時の経過もなく、場所も定まったアイデンティティも感じられない。反演劇に近づく。
     チェーホフは、わざとらしく構築され、発展的で、物語が産むサスペンスやアクションを拒否した現代のイヨネスコの作品に影響を与えた演劇を創り出したとギルマンはいう。アクションは間接的セリフに変えられる。メロドラマは物理的・情緒的アクションを見せる演劇だが、チェーホフは逆だ。クライマックスも避け、チェーホフは延長・継続を選択した。救済も断罪もないドラマ。日常生活の忍耐のドラマ。
     チェーホフ「三人姉妹」とベケットゴドーを待ちながら」の相似性も指摘されている。ピランデッロは「作者を探す六人の登場人物」などで、虚構と現実、仮面と実在などで、演劇そのものがもつ「うそ」と演技など劇的構造そのものを舞台化した。ブレヒトも演劇を、意識に幻想を与え今のままに同化するのではなく、異化し刺激を与え活性化する舞台を作ろうとした。反ドラマチック。反バーチャルリアリティの演劇。反スペクタクルの演劇になる。
     ベケット論も面白かった。願う心と失望する世界の間の乖離と、不在の「不条理演劇」は、ストーリーも結末もない「何も起こらない劇」を創り出した、ベケットは「勝負の終わり」以来、戯曲は短くなり、劇的アクションはいっそう排除されていく。グロトスキーのいう「持たざる演劇」である。その延長上にハントケの戯曲がある。20世紀演劇は「反演劇」になっていく。(論創社塩尻恭子訳)