福嶋亮太『復興文化論』
福嶋亮太『復興文化論』
戦災や自然災害の復興期のエネルギーが、芸術などの文化創造の始まりに成るというのが、福嶋氏の視点である。白村江の敗戦、壬申の乱の7世紀後半、源平合戦、南北朝時代、応仁の乱、日露戦争、第二次世界大戦の災危の後の復興期という、壮大なスケールで論じられていく。
それも時代通史というよりも、不連続な歴史的視点を設定している。過去の首都の荒廃を廻り「観客」的な和歌を作った柿本人麻呂から、災危の運命を和漢混淆文で描く「平家物語」、中国の亡国遺民の復興思想に、日本的国民性を混ぜた滝沢馬琴、上田秋成に至る。
さらに日露戦争後の「不機嫌な時代」の夏目漱石、関東大震災後に「美の劇場」を設計した川端康成、第二次世界大戦後に人工空間をつくりだした手塚治虫、それに抗し「自然」「日本」を呼び込んだ宮崎駿などが、次々と論じられていく。
おまけに中国文学者の福嶋氏は、中国の亡国・滅亡からの復興を、「遺民」という視野で、孔子から論じ、宋、明の遺民ナショナリズムを引いて、日本明治維新イデオロギーへの変換を述べる。「水滸伝」を「カーニバル文学」と見て、日本江戸文学との相違さえ論じる。読んでいて、福嶋氏の博識にめくるめく思いだ。
現代文学でも、三島由紀夫から中上健次、村上春樹とハッとさせられる指摘がある。だが、第二次世界大戦の復興期の精神に、「戦後文学」群(大岡昇平、武田泰淳、大江健三郎、野間宏堀田善衛、遠藤周作、安岡章太郎など)がはいっていないのには、違和感をもった。
だが、「復興」という精神状況で、文化を捉えていくのは、日本文化史として面白い。それも「無常観」とか「抒情性」という視点を否定している見方も、新しく日本文化史の構築につながる。さらに中国文化との模倣、差異に踏み込んだのは、西欧文化を座標軸にした比較よりも、深みがあると思う。サントリー学芸賞受賞の力作である。(青土社)