萱野稔人『国家とはなにか』

萱野稔人『国家とはなにか』

     国家論は多様にある。近年ではアンダーソンによる「想像の共同体」論が持て囃された。萱野氏の国家論は、「想像の共同体」論とは対極にあり、「暴力かかわる運動」という考え方である。バリバールやフーコードゥルーズ=ガタリなど現代フランス思想を基盤に、国家論を構成しており「暴力の歴史の哲学」を展開した力作だと思う。
     萱野氏は、マックス・ウェーバーの「物理的暴力行使の独占」から国家概念を規定していく。暴力の行使が国家に先行する。暴力が組織化され、集団的に行使されるメカニズムが説明されていく。その場合「暴力の組織化」と「富の我有化」が二本柱になる。
     「暴力の組織化」では、暴力と権力の相違を明らかにし、秩序と支配の保証による「法措定・法維持暴力」で、人為的に加工され国家が成立してくる。「戦争機械」論に近い萱野氏は、社会契約論を退けている。国家は租税の徴収という「富の我有化」を行い、より強い暴力を組織化した集団が住民たちを支配し富を奪う。萱野氏は、国家以前に所有は存在せず、私有制は国家による公的所有を前提にするという。ジョン・ロックとは対極の論である。
     さらに萱野氏は、「主権」の成立や「領土と国境」を、富の我有と関連づけて分析していく。現在大勢を占めている「国民国家」の人工的形成は重要な視点に満ちている。国家の「暴力の民主化」が、住民全体の共同性によって規範化され、脱人格化され「国民国家」になる。ナショナリズムとは、暴力の集団的実践を、民族的原理に基づかせようとする実践なのだ。
     現代国家は暴力を基盤に「死なせる権力」(死刑から、民族浄化、戦争まで)と、「生きさせる権力」(出生など人口、健康医療、教育など規律訓練、社会福祉など)への介入・管理に主権的権力を構成していると分析している。
     「国家と資本主義」の考察も重要な視点を含んでいる。国家とは、ストックを生じさせる仕掛けというのも気に成るが、資本主義が死滅しても国家は残るというのも衝撃的だ、また現代国家は、社会政策的国家から全体主義国家にむかっているという萱野氏はの見方も賛否はあろうが、重視すべきだと思う。(以文社