三浦哲哉『映画とは何か』

三浦哲哉『映画とは何か』

     いま映画は「フイルムからデジタルへ」という変革に直面している。観賞も、映画館からテレビ、さらにPCやモバイル機器と多様化し「動画化」ともいわれる。映画は二極化し、娯楽・情報スペクタクル映画と芸術・美学映画に分かれ、その間の「中間映画」の主張もある。3D映画という技術と古典回帰という並立状況にある。
     三浦氏は、この状況の中で、映画の原点に再帰し、映画を通して世界を単純に愛することが可能という視点で、フランス映画思想から論じている。労作である。三浦氏の座標軸は「リアリズム」から「自働性の美学」へ、である。
     まず20世紀20年代の「科学映画」の先駆者パンルヴェが取り上げられ、タツノオトシゴやタコの映画で、顕微鏡先のカメラに微小生物の自動運動を見出し、人間の知覚の有限性と相対性を「自動運動」に見いだし、生物と無生物が共鳴する自動運動の映像化を行う。
     ついでアンドレ・バザンのリアリズム論を取り上げ、カメラにより現実を人間知性を媒介せずに無垢の仕方で取り上げるリアリズムの面だけでなく、40年代に現実への従属でなく、想像力による「イメージ」の自働性を、チヤップリン映画で重視したと論じる。
     さらにブレッソンの作為を一切放逐して、俳優の身体の自動作用の束に還元する思想を、パスカルの宗教性の受肉思想と関連させ神話創造として、映画を捉える。この視点は新鮮である。イメージが自動保存され、この社会で自律性をもつことは、ヌゥベルバークのトリュフォー映画に継承されたと述べる。
     最後に哲学者・ドゥルーズの映画論を論じ、ベルグソン的直観と時間持続による「運動イメージ」のなかで、精神的自動装置による紋切り型でない思考の創造を、映画に求める思想を丹念に読み説いている。
     映画が今、大きな変革期にあるとき、三浦氏のように、映画という芸術の原点の思想に立ち返り、再考するのは重要な仕事だと思う。また三浦氏の映画館の再興の視点は面白かった。(筑摩書房