門脇むつみ『巨匠狩野探幽の誕生』

門脇むつみ『巨匠狩野探幽の誕生』

    17世紀江戸・寛永期画壇を席巻した狩野派狩野探幽の全体像を描いた労作である。門脇氏は、探幽の描く肖像画(例えば「黒田忠之像」など)に出合い、独特なスケッチ風な線がかたどる人物の確かな存在感により、探幽を調べてみると、親しい人々の交際のなかでの制作とわかり、興味をもったという。
    探幽の絵といえば、名古屋城本丸の障壁画「雪中梅竹鳥図」や数多くの「富士山図」など、淡い墨色の微妙な濃淡で、白い余白が大気となって、絵の外に続いていく。徳川初期の新たな寛永文化の可視化を担った「新しい絵」を創造した。
    徳川家康、家光など4代将軍に御用絵師として仕え、後水尾天皇や貴族層、大徳寺高僧、大名稲葉家、林羅山など当時の支配層との幅広い交際によりパトロンを広げ、名門狩野家の画技を発展させたことを、門脇氏は丹念に調べ、寛永文化論にもなっている。
    名門画家の家に生まれ、天才少年と持て囃され、支配層に気に入られる姿は、私にはモーッアルトを連想させる。さらに門弟40−70人を抱え、工房制作をしていく探幽は、同時代人のレンブラントや、ルーベンスを髣髴とさせる。門脇氏は73歳で死ぬまでの生涯を綿密に辿り、晩年中風に苦しめられながら、画筆をとるのは滝沢馬琴を思わせる。
    探幽様式を門脇氏は、①墨色の線を淡くし、スケッチ風であり、線の数を減らすミニマリズム②かたちモチーフのサイズを小さく、一部のみ描く③色数も少なく余白を大きくすることを挙げている。つまり「引き算の美学」である。これは狩野永徳など桃山期の濃厚・絢爛の足し算美学のアンチテーゼともいえる。
    面白かったのは、探幽が和歌でいう「本歌取り」のように、雪舟始め中国画の模写やコピーの名手であり、支配層の絵画の鑑定人という技官のような役割も果たしていたことだ。探幽の贋作はいま多いが、探幽自身がその才能も持っていたことの指摘は面白い。江戸文化を知る一冊である。(朝日新聞出版)