井田朋宏『障がい者スポーツ50年』

井田朋宏『障がい者スポーツの50年』(『スポーツゴジラ』第25号)

    今日10月10日で東京オリンピック50年である。それは東京パラリンピック50年でもある。シドニーパラリンピック陸上日本代表監督だった井田氏が、その変遷を『スポーツゴジラ』紙面上で話していて興味深い。パラリンピックは東京の前のロンドン大会から始まった。
    50年前の日本では障害者が人前でスポーツをするとは考えられず、出場した日本選手はアスリートでなく、リハビリ中の入院患者だった。差別偏見も強く、社会参加も困難だった。特に脊髄損傷の下半身不随の人びとは。床ずれや排尿で苦しんでいた。次第に失われたものを数えるのでなく、残された機能を最大限生かすという考えが強まり、手術よりリハビリさらにスポーツへの方向が強まる。
    パラリンピックも障害者を見世物にするのかという批判が多かったが、国立別府病院の中村裕医師の生きる喜びに必要という運動により、また天皇・皇后(当時は皇太子)の賛同もあり実現にこきつけた。この五輪では、まだすべての障害者の参加と車椅子使用者が分かれている。東京パラリンピックは身障者の精神的・肉体的コンプレックスを解消するなど目標にした。
    井田氏によれば、当時はまだ身障者自立の施設もなく、西欧諸国の選手が健常者と同じの生活で溌剌としていたが、日本選手は弱々しくみえたという。1970年代ごろから自発的にスポーツを楽しむことが日常化し、バリアフリーで指導者のいる障害者スポーツセンターが出来始めた。1989年に国際パラリンピック委員会が創設される。
    1998年長野パラリンピックからスポーツとして自立し、競技用器具の開発が進み、日常生活にも応用される。バスケの車椅子は車輪が前部にありターンしやすく、航空機使用のアルミニウムで軽量化されている。リハビリとスポーツ、福祉と競技のねじれ・矛盾は解消されつつある。私はバスケの試合を見て、健常者スポーツよりもスピードや激しさに驚いた。
    井田氏は、障害も一つの個性と認め、多様性ある活力共生社会の創造を、2020年の東京五輪に求めている。井田氏の文を読んで、私は健常者と障害者の五輪を、時期をずらさずに同時競技開催、共通会場での競技の実現が必要なのではないかと考えた。(スポーツネットワークジャパン発行『スポーツゴジラ』)