野田正彰『喪の途上にて』

野田正彰『喪の途上にて』

   この本を読んでいる時、広島豪雨の土砂崩れで多くの人々が亡くなった。愛する人を亡くした遺族の悲哀は如何ばかりか。私は20年前の野田氏の本を読みながら、涙が止まらなかった。愛する妻を、最近がんで亡くした喪の状況にあるためである。
  精神科医が、社会的文脈のなかで、1985年日航ジャンボ機御巣鷹山の墜落による遺族520人死亡のなかでの、遺族の聴きとりを中心に、喪失、悲哀の過程から、補償、訴訟、喪のビジネスであるマスコミなどを綿密に研究した現代の古典である。阪神淡路、東日本大震災福島原発事故など、遺された者がいかに喪の悲哀の中で、生きていくかまで示唆を与える名著だと思う。
   精神科医だけあって、遺された者の「喪の段階」の理念型は、非現実感、絶望、周囲への抑えがたい怒り、よく鬱、生き残りの自責感、という段階に分析している。と同時に。豊饒な喪を創り出し、回心と生きる意味の再発見をしていく遺族も描いている。
   私が感動したのは、野田氏が2年や3年後まで遺族を訪ね、寄り添いながらその悲哀の精神状況を綿密に聴きとっていく姿勢だった。精神科医という聴く専門家だから出来たともいえるが、遺族個人に寄り添い安易な同情でなく、冷静に社会的文脈の中で悲哀を聴いていく。文章もうまい。遺体の捜査、身元確認の凄惨さは、日航世話役や警察など行政の在り方批判など複雑な人間心理のなかで捉えられていく。
   働き盛りの夫を失った妻、子どもを亡くした親、妻娘を死なせた夫、息子夫婦を失った老夫婦、いずれを読んでいても涙が流れてくる。そうした遺族の数年後の聴きとりも迫力がある。立ち直れない人も勿論いる。
 日航など加害企業が、遺族の悲哀の意味よりも補償という金銭問題にすり替えていく冷たさも的確に書かれている。福島原発事故の東電の補償問題と似ている。マスコミの物量報道や感情言語を無くした記者たち、事故が起きた日だけ記念行事だけ思い出すカレンダー的報道が、いかに遺族を傷つけるかもきちんと批判している。
   将来、大地震や異常気象災害、巨大技術による大事故、テロや無差別殺人などの人災、ウイルス伝染病が数多く起こることが予測されている。その時遺された者も多数でるだろう。この本は一つのメッセージを秘めていると思う。(岩波現代文庫