高銀・吉増剛造『「アジア」の渚で』

高銀・吉増剛造『「アジア」の渚で』

   韓国の詩人・高銀と日本の詩人・吉増剛造の対話と往復書簡を収録したもので、10年前に出版されたが、いまでも重要な示唆に富む本である。高銀氏は、朝鮮戦争時に虐殺を目撃し、僧侶になるが還俗し民主化運動で投獄・拷問を受けた。2000年金大中金正日の南北会談で「大同江のほとりで」を朗読した。吉増氏は前衛詩人であり、「螺旋歌」「ごろごろ」などの詩集がある。
   吉増氏はハングルに恋をしたといい、「韓日・日韓小辞典」を持ち歩き、二つの言語を深く考察している。高銀氏は、宇宙の言語の四分の一しか使っていず、少数言語が絶滅している今、宇宙方言として詩をかくべきだという。詩人が「言葉のかけ橋」になることを主張している。私は亡くなった詩人・茨木のり子さんが、ハングルと日本語の親和性を詩で表現しようとしていたのを思い出した。
   高銀氏は、「東北アジア共同の家」を、海の広場で作り出そうと提案している。ブローデルの「地中海史観」や網野善彦の海は人々を結びつけるという「網野史観」に依拠し、陸地中心の大陸史観でなく「海の広場」という連帯で日・韓・中が、閉ざされた海から脱却していく未来を詩的直観で主張している。
   済州島から沖縄までの海の広場を協同で作り出す。高銀氏は、古代東アジアの世界は、近世・近代の陸地中心主義による加害者と被害者を乗り越え、海が沿岸国家に開かれた交響楽のような関係だったが、太古のアジアに戻る「海の華厳」という視点を述べている。
   吉増氏は、「共同」よりも「不揃いの干潟の家」という象徴的表現で、画一化されない不揃いな協同を主張している。詩的ヴィジョンと言ってしまえばそうかもしれないが、南北朝鮮統一と、海を媒介した東アジア共同の家が未来への予言として夢みたいと思った。(藤原書店