内村鑑三『ヨブ記講演』

内村鑑三(4)
内村鑑三ヨブ記講演』

   内村が旧約聖書ヨブ記」を、自己の魂の実験として読み説いた。内村のキリスト教信仰が凝縮されている。ヨブは普通の市民でクリスチャンだが、財産は破産し、子どもに先立たれ、妻や親族にも去られ、友にも見捨てられ、自らも難病にかかる苦難に陥る。罪なき人間に、何故神は災いをもたらすのか、神にも見捨てられたかと疑い、恨むヨブが、自殺せず、苦難を忍耐しながら、神の信仰を復活していく物語である。
   内村は、三人のヨブの友との対話を通じて、信仰を捨てず、ヨブが再生と神を見る「見神」に至る魂の過程を論じていく。ヨブを訪れた神学者などの友3人は、災禍はヨブの悪による罪から生じたと論理的に説得する。天罰論である。これらの友は神学的教義でヨブを責めるが、内村は愛なき教義・知識は無意味だという。
  旧約の神は「義なる裁きの神」だが、新約の神は「愛の贖う神」である。ヨブはキリスト生誕以前の旧約の物語だが、内村はヨブにキリスト出現の予兆を見ている。苦難に悩むことが、神の救いの始まりで「悪人」は煩悶恐怖を感じない。ヨブは人間の知の狭小を悟り、神智の広大さに目覚め、謙虚になる。
   内村はヨブ記に罪を贖う神の再臨と、見神と復活という思想を見ている。旧約の新約化といえる。信仰は個人的なもので、ヨブは一人苦しみ贖い主を見出した。内村は社会や国家や世界と共に神を知ることを批判している。
   私はこの本を読み、内村には「見神」という神秘主義的な要素があると思った。また、「万象のなかに神を見る」という汎神論もあると思う。「苦悶者の真の行き場所は教会にあらず、教師にあらず、宗教書類にあらず、神の所作物たる自然の万物万象である。それに親しみて神を見、かつ己の真相を知り、以ってヨブの如き平安と歓喜を味わうに至る」と述べている。(岩波文庫