グローマー『瞽女のうた』

グローマー『瞽女のうた』

  瞽女(ごぜ)とは、盲目の女旅芸人で、家々を回り歩き、三味線伴奏で歌を歌い謝礼をもらう。近世から昭和半ばまで存在し、関東甲信越を巡回したが、いまや消失してしまい、録音も写真も少ない。この視覚障害者の近世旅芸人を、多くの史料から描き、その生態や瞽女唄の節回し、物語などを分析し、瞽女を支えた社会まで考えたグローマー氏の力作である。
  近世に女性の視覚障害者が生きていくのは困難を極めたと思うが、職業芸人として組織され、(瞽女宿まであった)師匠の訓練により芸が伝承され、町人社会でも農村社会でも門付けを容認する。グローマー氏によると、甲府では近世後期二百人以上が住み、世襲制の頭に家元制を取り、明治5年40組(1組5−10人)もいたという。「瞽女縁起」や「瞽女式目」を持ち、弁財天に守られ、古の天皇に認可され、厳しい規律と品行方正の職能集団だった。
  私は20年ほど前、郡上八幡の盆踊りに生き「春駒」という唄で踊ったことがある。 グローマー氏の本で、無病息災、五穀豊穣などの門付け唄に、関東養蚕地域で、越後瞽女が「祝くどき」のなかに、「蚕くどき」「お棚くどき」「「春駒」があったことを知った。この唄を三味線伴奏で歌うと、蚕が丈夫に育つというので人気だったという。盆踊りとの相関関係は分からないが。
  近世日本は唄と器楽芸能の宝庫で、旅芸人が多くいた。瞽女の唄の特徴を、グローマー氏は、万歳、民謡、流行歌、端唄、長唄浄瑠璃、和讃などを、片っ端から取り入れ歌ったという。「祭文松坂」における「佐倉宗五郎」「鈴木主水」などの詞章や旋律を分析している。
  明治の文明開化で、甲府では瞽女・座頭禁止令がだされ、2世紀以上続いた瞽女組織は解体されていく。瞽女唄が滅びて行ったのは、社会的変動だけでなく、芸能の商品化にある。グローバー氏は、聴衆の歌感覚の変化を挙げ、瞽女唄が柔軟な拍感と不規則なフレーズから成り、長い物語と言葉遊びと滑稽が含まれているのに対し、モダンの歌謡曲機械的なビートを強調し、すぐ消費される歌との相違を挙げて、モダン流行歌が広告の煽り文句だが、瞽女は江戸時代の瓦版の文句だと述べている。
口承文化だった瞽女が、近代資本主義文化により、絶滅されたのは悲しい。(岩波新書