土屋恵一郎『能、ドラマが立ち現れるとき』


土屋恵一郎『能、ドラマが立ち現われるとき』

能「井筒」から「砧」まで10作品論であるが、土屋氏が見た能上演における名人の演じ方が同時に述べられていて、能ドラマの現場にいるように、作品が生き生きと浮かび上がってくる。
土屋氏は、世阿弥などの能作品を「伊勢物語」など古典物語を身体芸のうちに解体・再構築して、第二次作品群を創造していったと主張している。「井筒」は、在原業平の妻が、去った夫を3年待ち続け死んでしまうが、その怨念が亡霊として出現する。土屋氏は、妻が業平の象徴である男装で舞い、不在の業平を井戸の底の水に幻像としてみる。愛が幻像のなかで戯れとしてのみ成立する「象徴と幻像」のドラマと見る。梅若六郎と友枝喜久夫の演技が言及されている。
「清経」は平重盛の三男だが、源氏との戦いに絶望し入水自殺をしてしまう。その形見の黒髪を従者が、清経の妻に届ける。黒髪が不在のメタファーになる。清経の亡霊が妻の寝室にあらわれる。妻は男の単独者・ダンディズムに、一緒に死のうという契りがあるのにと異論をとなえる。男の論理に、歴史の中の女の声と土屋氏は捉えている。不在の男に対する女からの問いかけが、「井筒」「松風」「班女」「砧」など世阿弥の作品に多い。「愛の複数性に生きる者と、歴史や運命の全体に吸収されてしまうシリアスな単独者との対立と葛藤」と土屋氏は指摘している。
姨捨」という老女物は、高齢の掟で山に棄てられた老女が、関係の掟から自由になって、自らの楽しかった人生をもう一度確認することによる能の救済がある。恋しき昔の記憶の風景に立ち返って、人生を再演し全体性を回復する世阿弥の救済観がある。
「鵺」の解釈は面白かった。惣堂を中世史家・網野善彦の「無縁―公界」と見立てたり、怪物・鵺と退治する源頼政を二重性で演じた観世寿夫から、米映画「バットマン」と悪であるジョーカーの二重関係の共通性から見ようとしている。「定家」では「突き抜けるゴシックロマン」という見方であり、歌人・定家と式子内親王のスキャンダルを、定家の墓に葛の蔦となり巻きつく式子が、ロマン派の廃墟のなかの植物の生命とからみ、壮絶な恋の妄執となり、人間も植物も共に救済される能になるという。
「大原御幸」は舞台でただ座り、謡う能だが、平家滅亡という歴史にたいする反ドラマとして捉えられている。世阿弥には敗者や弱者の立場に立った鎮魂のドラマが多いが、放浪する芸能者という少数・排除された立場が作品にも反映している。土屋氏の感動しながら、作品を論じる姿勢が良かった。(角川選書