赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』

赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』

    作家・赤坂氏はいう。「研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である」と。東京オリンピックの1964年生まれの赤坂氏が、驚異の戦後復興のオリンピックという象徴は、私たちの力だけでなく、アジアの共産主義の防波堤としてアメリカに優遇され、戦争特需で、米軍戦車のスクラップで東京タワーが作られたように、二度とない「物語」を創り出したという。
    生き続けている古い物語が、2020年のオリンピック東京誘致をよび、中央へのエネルギー供給のため、地方の「犠牲システム」が作られていく。
    ジョン。ダワー氏の『敗北を抱きしめて』(岩波書店)を引き、占領期の日米関係に「何か性的な匂いがした」ことを、占領期の日本とは「お・も・て・な・し」だったと理解するのは、秀逸だ。。在日米軍の予算を「おもいやり予算」というのも合点がいく。
    作家らしく高度経済成長期を、子供の遊びのための空き地とガキ大将の消失から考え、共有(空き地で遊ぶ)→私有(ファミコン)→超私有(ポータブル)とからめ、日本全国が宅地になり、土地の私有が進んだのと、子どもの遊びの私有化とを同時進行として捉えている。陰湿ないじめが増加する。
    60年安保闘争に戦犯が首相になるのに対する国民の「戦争裁判の側面」を考えてみたり、70年安保闘争を「暴力の感受性の鈍化」から考えるなどハッとさせられる。三島由紀夫連合赤軍の自殺と仲間殺しを、帝国陸軍の「玉砕」と「特攻」という自暴自棄の共通性を指摘しているのは、面白かった。あさま山荘を鉄球で破壊するのを、東京オリンピックで施設を作るため鉄球でビルを壊したことに始めを見ている。
    赤坂氏は1980年に断絶を見る。みんなが忘れたふりをする断絶。「完膚無き敗戦」も「「占領国アメリカへの愛」も「自分とアジアの忘却」が忘れられる。異質者を排除した「笑いブーム」や「漫才ブーム」を、同質集団内部の調停者の芸と見る。「エンジンからエレクトロニックスへ変わり、見た目がクリーンで中身がブラックボックスに感じる変化」と、80年代断絶を赤坂氏はいう。
   オウム事件に日本社会の「語り得ないもの」が凝縮されているという。敗戦後の日本の姿「神を創ってそのもとにまとまり、戦(聖戦)を戦い、負けた」。人々は神が負けたから、天皇という現人神を忘れ生きている。
    オウムが奇形なら大日本帝国も奇形だ。赤坂氏がオウムを、秘教的身体技法と、暗記モノの受験システムが合体され、修行に努力すればむくわれるという霊的ステージの出世上昇と、疑似日本国の省庁などが、高学歴の人々の出世心性にマッチしたのと似ているともいう。閉鎖社会の内側に育った異物だから、オウムを無視したいのである。
  「見えなくなっている」近現代史を、赤坂氏は、自分の家庭や地域さらに成育史から、真摯に見ようとした本で、「考えるヒント」になる。憲法問題や東日本大震災にも興味深い指摘がある。(講談社現代新書