土屋恵一郎『能、世阿弥の「現在」」』

土屋恵一郎『能、世阿弥の「現在」』

  能芸論の傑作だろう。世阿弥は能を祭儀的、芸能史的な共同体の文脈から解き放って、都市の不安定な気分のなかで変化する人気を重視した。その上で、身体的・官能的・触感的な「現在」の自由さの芸術にしたと、土屋氏は主張するのだ。
  身体論から始まり「能の身体は徹底して受動の身体である」という。仮面をつけて受動の不安定の状態が「舞」の力の流体になる。能面と身体の関係から、場所のなかの身体と距離、視線が説かれていくのは新鮮である。「離見の見」について、舞台正面から縦に見る西欧舞台と異なり、能は四方に観客の視線を浴びる為、「舞」を舞う自分の姿を観客を通してみることをいうと土屋氏は述べている。「序の舞」論も面白い。
  「橋懸かり」は、共同体の橋でなく、その時々の群衆や貴族からなる浮遊する観客の前に登場するための橋である。「人気」のタイミングを背おって、彼方から出現し去っていく「往還の道」あると見る。
  土屋氏は能のドラマの基本要素は「旅」する僧、「橋」そして「夢」だという。不安定な浮遊しているものがドラマを構成する。主人公は亡霊である。死してなお怨念に苦しむ亡霊の語りをセラピスト僧が弔い、「物語の牢獄」から解放しようとする。それを日常の「夢」の世界のなかで行うのが複式夢幻能ということに成る。
  土屋氏の世阿弥論も面白い。「幽玄」を、セクシュアリティの身体感覚だといい、「花」を珍しさ、新しさ、面白さから解釈している。世阿弥の「芸」において、役者の年齢の成長を、「自然の身体」(時分の花)「意志の身体」(稽古による円熟)「自由な身体」(老木の花)から論じているのは、芸談だけでなく、人生論としても読める。
  私は1977年の観世寿夫とジャン・ルイ・バローの競演の舞台を描いて、西欧演劇と能の相違を論じた土屋氏の見方が面白かった。その舞台は見ていなかったが、さも観客として見ているような気分にさせられた。土屋氏の力量だろう。(角川ソフィア文庫