チャンドラー『大いなる眠り』

チャンドラーを読む③
チャンドラー『大いなる眠り』

 私立探偵マーロウの物語の諸構造
①  マーロウはチェスを事務所の机の上で「詰将棋」のように独りで行っている。作家・ウンベルト・エーコが007ボンド物語分析でいう「完璧に規制された『打ち駒』によるプロット」。(グリッティ『ウンベルト・エーコ』)
ギャングや警察、女性、犯人との勝負には、マーロウは自らが「打ち駒」となり、瞬時の機転で危機を抜け出す。自身の行動により犯人の行動をあぶり出し、問題解決する。
②  組織と個人。警察でもギャングも組織的権力を使うが、マーロウはたった一人の知恵と身体力のプラグマティズムで行動し、それに対抗していく。
金権力、組織暴力に対し、生活のための仕事として、「冗談口」(ユーモア)を叩きながら危機的状況に距離を取る「余裕」を自分に課している。
③  金持・富裕層と貧乏マーロウ。マーロウは金持が嫌いだ。たとえ億万長者が依頼人であっても。「富の蓄積過程は世界と人間の世界性を犠牲にする」(ハンナ・アーレント『人間の条件』)富裕層には批判的である。
チャンドラーの小説に出てくる金持の娘たちは、他人を無視し、自分の主観の唯一つの経験の中に閉じ込められている。退屈し空虚であり、過剰に「私的」である。これに対しマーロウは、他者の関係性に生き、開かれた相互性を築きながら、事件を解決しようとする。金持の放恣に対して、仕事による節制と禁欲。たとえ酒を飲んでも、怪しい女性の誘惑は避ける。豪華対耐乏。誠実対不誠実。金銭欲対理想。危険対プログラム。この二項対立が、チャンドラーの小説にはある。
④  探偵と犯人。マーロウの相手をする犯人は、金持の女性であり、「死と愛」の葛藤があるが、その女性は野心家であり、性的に魅力があり、暴力的美女であり、衝動的な狂気(崩壊感覚)の持主である。探偵は思慮ある男性であり、無野心であり、思慮的である。チャンドラーの小説はフェミニストには耐えられないだろう。
⑤  20世紀前半のアメリカ西海岸ハリウッドの富裕層、警察、ギャングなど、その縮図がマーロウの物語にはうまく描かれている。(創元推理文庫双葉十三郎訳)