矢野久美子『ハンナ・アーレント』

矢野久美子『ハンナ・アーレント

  最近日本でもドイツ映画「ハンナ・アーレント」が上映された。20世紀のユダヤ系政治哲学者アーレントの思想は、ますます注目されてきている。矢野氏の本は、アーレントの激動の生涯を詳細に辿り、その思想を手際よく紹介している。
ドイツでユダヤ女性として生まれ、1933年ナチ支配下からパリに脱出し、避難民の救出にたずさわり、第二次世界大戦でフランスの収容所に入れられたが脱出、アメリカにわたり、ニューヨークでユダヤ難民生活を送る。アメリカ国籍を取得し、大学で教えながら、数々の著作を出版して、1972年に亡くなっている。
   この本を読むと、アーレントが20世紀思想家と深い関わりがあったことが分かる。マールブルグ大学時代、哲学者ハイデッカー教授の教え子になり、妻子あるハイデッカーと秘められた恋に落ち妻(反ユダヤ主義者)に知られ、ハイデルベルグ大学に転学し、哲学者ヤスパース教授の愛弟子になる。
   二大哲学者との親交は、アメリカ亡命後まで続く。ヤスパース思想とアーレント思想は共鳴するが、ナチ党に入り、大学総長になったハイデッカーとの関わりは、「反面教師」だったと、矢野氏の本を読み思った。たとえば、「実存的単数性」と「他者との複数性」との相違がある。収容所から脱走し、亡命するが、その直前まで思想家ベンヤミンとも親しかったが、ベンヤミンは逃げられずスペインで自殺する。21世紀思想史の交錯。
   戦後ユダヤ人虐殺という「人類にたいする犯罪」を知ったアーレントの行動や思想も、矢野氏の本では、くわしく書かれている。この衝撃から、『全体主義の起源』や『人間の条件』が書かれていく。
   映画でも取り上げられていたが、1960年イスラエル諜報機関により、アルゼンチンでゲシュタボのユダヤ人絶滅の指揮を執っていたナチ官僚アイヒマンが逮捕され、裁判にかけられ死刑になる。アーレントはこの裁判を傍聴し『イェルサレムアイヒマン』を書き、「悪の陳腐さ」を指摘し「アイヒマン論争」を起こした。
  この本には、ナチ官僚とユダヤ人組織の協力関係や、イスラエル国家の「見世物」裁判という宣伝的役割、ヒットラーへの抵抗運動はユダヤ人を救うものではなかったなどの主張があった。犯罪者アイヒマンの責任を軽くするなど、アーレントへの批判が集中し、ユダヤの友人たちは次々と絶縁していったという。全体主義社会におけるアイヒマンのような無思考の紋切り型の凡庸さの危機感が、アーレントには深かったと矢野氏は考えているようだ。(中公新書