チャンドラー『さらば愛しき女よ』

チャンドラーを読む②
レイモンド・チャンドラーさらば愛しき女よ』 
  チャンドラーの小説は、スピード感があって、セリフも洒落ていて、映画のように映像が浮かんでくる。その音楽はジャズが好ましい。この小説を読むと、ロスアンジェルス(ハリウッド)の街や、郊外の自然や、港の風景が生き生きと描写されていて、その場に私立探偵マーロウと共に立ち会っているような臨場感を持つ。
  ストーリーは自然に無理なく流れていき、推理小説によくあるわざとらしさの作られた無理が感じられない。警官もギャングも、ジゴロも、用心棒も、神経医も,前科者も、富豪も、特異な人物でもあっても、どこか愛すべき人物に描かれている。もちろん、殺人事件の謎ときも、手が込んでいて、犯人は最後まで分からないように計算されている。だが、チャンドラーは事件の謎よりも、人間の謎に興味があるのだ。
  チャンドラーは「善悪の彼岸」に立って、人間の性格を創り出し描き出すのがうまい。この小説に出てくる銀行強盗の前科者大鹿マロイという大男は、釈放され出てきて密告されても、愛している女性を探し出そうとする。暴力的な力持ちだが、その女性への愛情は強い。探偵マーロウも愛すべき人物として好感をもっている。その愛しき女に最後に射殺されてしまうのが哀れを誘う。純愛が犯罪に繋がる哀しさがある。
  チャンドラーの女性像は、謎である。美女で魅力的であっても、得体のしれない怖さを秘めている。その描写は容貌、しぐさ、衣装、会話などリアルに描かれているが、強く、狡猾で、行動的である。セックスにも強いが冷感症のようにも思われる。この小説の元ナイトクラブの歌手で、富豪夫人に上り詰めるヴェルマにしろ、『長いお別れ』の作家夫人の美女アイリーンにしろ、ある不可解な謎的性格である。
  チャンドラーは、男性を描くのはうまいが、女性にはある複雑な感情を持っていたと思う。ずうっと母親の世話をし、亡くなった2週間後に、18歳年上の女性と結婚し、その妻の死後、老人でアル中毒になったという私生活に、私は興味がある。
 1930年代のアメリカの地方都市の地方政治や、司法、警察組織のカネが絡んだ権力腐敗も、この小説でも描かれている。(ハヤカワ文庫、清水俊二訳)