サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』

ナタリー・サルトゥー=ラジュ『借りの哲学』

  「借りる」「返済する」を、贈与、返礼、交換、負債にまで広げ、EUの債務危機に個人のカードローンまで、さらに「借り」を拒否する新自由主義の自律した人間、「借り」から逃亡するインターネット人間まで、幅広く論じる面白い本である。おまけにニーチェレヴィナス、ヴェーユ、デリダラカン、モースの思想を織り込み、「借り」のドラマ『ヴェニスの商人』や『ドン・ジュアン』まで引き合いに出すのだから、その横断的思想には驚く。
  サルトゥー=ラジュ氏は、貨幣を媒介とした「等価交換」を絶対視する資本主義の暴走をやめ、「贈与交換」をもとにした「借り」の概念を復権させようとしている。「借り」は返せないと「負い目」を感じ、返す義務を持ってしまう。だが直接には「返さない贈与」という考えから、将来に「他のものに返す」という贈与循環をサルトゥー=ラジュ氏はいう。
  人間には、借りのない生はありえない。家族関係は親子関係のように、子どもは親から受けた愛という「借り」を、直接親に返さなくても、自分の子や後に続く後輩に間接的に返せばよい。臓器提供は、「返礼を求めない贈与」であり、ドナーは死んでいるが、受けては自分の生命の尊重と、他の人々への社会的お返しをすればよいという。
  社会的な贈与交換は、地球環境や、社会福祉、さらに前世代の「借り」としての戦争責任まで広げられるだろう。「借り」は他者との相互依存関係の根本にあると、サルトゥー=ラジュ氏は考える。ナチスの罪と、戦後世代の罪悪感も、返せない負の借りだという観点から、借りの免除による「赦し」と「感謝」の相互関係を指摘している。
  「個人の自由」を重視する自由主義は、借りから自由になるため社会との関係を断つか、あるいは社会から離脱・逃走するしかない。借りを求めない「自律した人間」は、仮面の個人主義による全能感をもつ競争的人間になる。借りから逃走する人間は、「機会主義者」になり、次々と別のところから金を借り、ネットワーク社会でも次々と集団をかえていくが、人間は「借り」から逃げ続けられないという。
  「借りをかえさなくてもいい社会システム」の構築とは、ポスト資本主義社会なのだろうか。本欄で取り上げたブルジェール『ケアの倫理』(クセジュ文庫)と共に今後を考えさせる本である。(太田出版。高野優監訳、小林重祐訳、国分功一郎解説)