やなせたかし『アンパンマンの遺書』

やなせたかしアンパンマンの遺書』

  私はアンパンマンを見ると、ワイルドの童話『幸福の王子』(新潮文庫)を思い浮かべてしまう。やなせは、この本でシェリー著『フランケンシュタイン』とメーテルインク『青い鳥』に強い影響をうけたというのだが。幸福の王子銅像は、ツバメを使者として病気の子供やマッチ売りの少女、屋根裏部屋で飢えながら劇作をする学生に、サファイアの両目や、金箔の衣装を剥がし与えていく。恵まれない町の人々に自分を与え、幸福の王子はとうとう裸像に成り、冬を越せなかったツバメとともに倒れていく。
  アンパンマンも自分のアンパンの顔を食べさせる。顔がなくなってエネルギーを失い失速する。焼け焦げたボロボロの、こげ茶色のマントを着て、恥ずかしげに、自分を食べさせることによって、飢える人を助け、それでも顔は笑っている。
  やなせは、最初のアンパンマン絵本で、顔を食べさせ顔がなくなったアンパンマンが、空を飛ぶシーンを描きたかったと述べている。顔がない無名で売れなかったやなせは、顔のない「ミスターポオ」というパントマイムの四コマ漫画も描いている。最初の絵本で、本当の正義とはカッコいいものでなく、自分も傷つく捨て身、献身の心なくしてはおこなえないと、いっている。
  この本はやなせの自伝だが、銀座モダンボーイ時代の青春から、戦争に徴兵され、中国戦線での経験、戦後の焼け跡から三越宣伝部就職、長かった無名時代、そしてやっと中高年になってのアンパンマンでの成功までを辿っていて面白い。手塚冶虫、いずみたく永六輔宮城まり子、羽仁進などとの、偶然の巡り合いと交友も読んでいて楽しい。「戦友」という妻がガンで先立つ文章には涙がでる。
  グラフィックデザイナーから、大人漫画の世界に入り、詩やメルヘンに興味を持ち、若者を読者にもったが、3歳から5歳の幼児を読者にもったことを、やなせは戦慄が背筋を走るのを感じたという。「幼児という批評家」は、文字も読めず、言葉もおぼつかないが、なんの先入観もなく、欲得もなく、すべての権威を否定する。純真無垢の魂をもった冷酷無比な批評家としての幼児を認めて、絵本やメルヘンを描くやなせの考え方が、この本では明らかにされている。
  アンパンマンのテーマソング。「なんのために生まれて  なにをして生きるのか」のやなせたかしの回答が、この本を読むとわかる。(岩波現代文庫