ブルジェール『ケアの倫理』

ブルジェール『ケアの倫理』

  「ネオリベラリズムへの反論」という副題がついている。日本版への序文では、「フクシマの後、私たちの世界は同じでない」で、生活の土地を離れ避難を余儀なくされた人びと、近親者を失った人びと、将来の見通しに難しさを抱えている人びとに、どのように「配慮する」ことができるかから、「ケアの倫理」をブルジェール氏は考えていることがわかる。「他者に依存しないという自律した個人の幻想は放棄すべきであろうし、国家中心による行政の合理主義のみによっては難しい」とも述べている。
  「ケアの倫理」はネオリアリズムの自律した個人の競争し合う資本主義市場経済世界に対して、他者への「心配」「「配慮」「心づかい」の世界である。「ケア」における自我とは、他者から切り離された自己中心の自己でなく、相互依存と協同の共同主観による自我だと考える。
  ブルジェールの人間の見方は、子どもや高齢者、障害者のみならず、根本的に災害、戦争。事故、失業、病気、愛する者の死など「弱い存在」にさらされている人間存在という「脆弱と依存」の普遍性として捉えている。「道徳」の超越的な抽象性の普遍主義(カント哲学)でなく、存在の不確かさと、個別、具体的な状況での実践が「倫理」だという。非対称的関係をいかに相互援助の平等な関係にしていくかに目的がある。
  ブルジェールは、哲学者ロールズの『正義論』などのリベラリズムを批判し、カントの超越的主体による規則や社会装置、合理的権利主体の契約による「正義」は、発言し行動する力がなく、アイデンティティを喪失した人を排除してしまうと主張している。それを、自律性と合理性を備えた個人主義でなく、絆と連帯との相互性による、個人を包摂する「感受性の民主主義」と呼んでいる。
  いま配慮する「ケア」が人的資本として、市場経済に組み込まれ、非対称関係が増幅される現状にたいして、プルジェールは批判的である。依存が対等な対称的な相互依存による「当事者」関係にいかに変化するかは、この本では十分に触れられていない。ケアは女性(母性)の性別分業ではないというフェミニズムの視点も強いと思った。(白水社、クセジュ文庫、原山哲、山下りえ子訳)