花田清輝『花田清輝評論集』

 花田清輝花田清輝評論集』

  花田清輝(1909−1974年)は戦後の評論家である。いま読んでも面白い。多面的で横断的思考がうかがえる。あらゆる価値が相対化される「転形期」の思想家である。一元的な完全な円球の思想でなく、二つの焦点をもって描く「楕円」の思想家である。一人二役の両義性からの統一は,「対立するものを対立のまま統一する」という考え方に表れている。(「二つの焦点」)
  「砂漠について」では、砂漠は無秩序だからピラミットが造られるということに疑問を呈し、砂の無数の運動により砂漠という形態秩序を創り出しているという。無数の砂の創造力は、破壊力と両義性を持つ。砂漠的精神の対立物の両義性を、魂と肉体まで普遍して論じる。その上で、「虚無」とは空虚でなく、無数のこまかい粒のようなもので満たされ、波のようにさざめき流れ、単調ではあるが複雑な矛盾状態であり、その無から創造が生じるという。
  花田は、前近代なものや大衆芸術を否定的媒介として、モダニズムを超えようとするポストモダンの姿勢が強かったと思う。この評論集に入っている「柳田国男について」は重要な視点を提示している。花田は,柳田の前近代の口承文芸などの視聴覚文化によるコミュニケーションを、近代の活字文化重視の否定的媒介として、総合化していくことに注目している。この論文はテレビが普及しだした1959年にかかれているが、ここに花田の前近代(視聴覚文化)を媒介とし、近代(活字文化)を充実し、その両義性でポストモダンを目指す姿勢が現れている。  
  花田は批評家として「悪態の名手」であつた。小林秀雄から桑原武夫まで、この論集でもその諧謔の批評には笑ってしまうほどだ。中国文学者・井波律子氏は、花田のレトリックを「悪態の美学」といい、いかなる情緒に流れず、諧謔の精神で悲劇を喜劇に逆転し、すべての既成価値を疑い、あれもこれも否認しながら、一人二役の対話を続ける「自立した人」を見ている。(『中国的レトリックの伝統』講談社学術文庫)同感である。(『花田清輝評論集』岩波文庫、粉川哲夫編)