ホフマン『砂男/クレスペル顧問官』

ホフマン『砂男_/クレスペル顧問官』
    『ホフマン短編集』

  19世紀のドイツ幻想文学者・ホフマンの短編集を、いまサイコ・スリラーとして読む。「砂男」は精神分析学者・フロイトが『不気味なもの』(光文社古典新訳文庫)で、幼年期の父親から去勢不安と母親への固着として分析した。ホフマンの小説を読むと、幼年期、薬物、精神分裂、神秘主義、夢と現実の混同、妄想、偏執など精神分析的な物語が繰り広げられている。だが、ホフマンの小説はそれだけでないと思う。
  人間の創造の源の「想像力の疎外」が主題に成っていると思う。科学技術の想像力による発明としての自動機械や、音楽、絵画などの芸術的想像力により人間により創造された芸術作品が、逆に人間を崩壊させていく。「砂男」の不気味さは、科学技術の不気味さを扱う。砂男は錬金術の実験家であり、晴雨計など機械売りである。スパランツァーニ教授の元にいる美女オリンピアは自動機械であり、その眼にほれた青年は精神に異常をきたし破滅の道に進む。現実の市民生活から逸脱していく。科学技術の発明品の不気味さは、無人戦闘ロボットや無人機、さらに原発の不気味さに通じている。
  「想像力の疎外」は、ホフマンの不気味さが、物を見る「視線の恐怖」にも見られる。「砂男」でも、眼球をえぐり取られる恐怖とともに、機械による視線―顕微鏡、望遠鏡、オペラグラスから鏡像、いまやメガネ型情報端末―まで貫徹してる。「廃屋」では、手鏡で廃屋の窓に映った美女を映し出す青年が、そこに不気味な物語を発見していく。「大晦日の夜の冒険」では、美女に鏡像を取られた男の悲惨な物語である。「隅の窓」は、車椅子で動けない男が、二階から街路の人々を望遠鏡で覗き見、その人間観察してあれこれ推察する。ヒチコック監督の映画「裏窓」を思わせる。手鏡でスカートのなかを覗く学者もいたが、携帯での盗撮や、町中に設置された「監視カメラ」の不気味さをホフマンは、先取りしている。
  芸術作品の「想像力の疎外」は、「クレスペル顧問官」や「G町のジュズイット教会」に見られる。不幸な芸術家というロマン主義的かもしれないが、芸術のなかにある人間を崩壊させていく不気味さを描いている。(『砂男/クレスペル顧問官』光文社古典新訳文庫、大島かおり訳、『ホフマン短編集』岩波文庫池内紀訳)