荒松雄『インドとまじわる』

荒松雄『インドとまじわる』

 この本は1982年出版である。荒は南アジア史が専門で東大教授だった。1952年31歳で戦後早くインドのベナーレス大学に留学した。まだインドには日本大使館もなかった。3年9月留学し、インドに9回、滞在期間5年というインド研究の先駆者である。50年代、70年代にかけて書かれたインドのエッセイであり、今読んでも面白い。
   古いかもしれないが、インドのある伝統的面をとらえている。聖地ベナーレスを、ヒンズーの「業」と「輪廻」で捉え、死は輪廻と転生であり、或いは死は生への回帰として人々は死を迎える為にベナーレスに来る。荒は当時ベナーレスでも3割はイスラム教だが、イスラム教徒の聖者崇拝の実体は、「聖墓崇拝」だと指摘している。荒は「インド史におけるイスラム聖廟」(東京大学出版会)という著書がある。この本でも中世インドの墓や聖廟のことが多く触れられている。ヒンドゥー教徒は、輪廻転生だから、火葬にして、灰は川などへ流し、墓崇拝は少ない。ガンジーの墓はニューデリーにあるが、実際は墓でなく、遺体を荼毘に付した場所に設けられた記念のモニュメントだという。
  日本の江戸時代初期、インド。パキスタンアフガニスタンのまたがるイスラム帝国ムガル帝国)の最盛期の皇后、皇女の女性像は面白く読んだ。「大理石の夢」といわれる5代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハルの墓廟タージ=マハルをめぐる歴史は面白い。その先代4代皇帝の妃ヌール=ジャーハンは、意志薄弱な皇帝を押しのけ自ら権力を握った「女袴政治」の専横をおこなったとされる。ペルシャ人に生まれ、数奇な半生をおくり、皇妃に上り詰める物語は真偽とりまぜて伝えられ、歴史家泣かせであるという。西欧の歴史家が書いたものもどこまで真実かわからない。
  ムガル帝国は皇帝継承で一族の争いは激しく、そこには皇妃、皇女も絡んでくる。タージ=マハルの皇妃は38歳で死ぬが、その間14人の子を設け、皇帝と親族争いに出陣し、軍陣地で産褥熱で死んだということを、荒の本で知った。その子6代皇帝アウラングゼーブも骨肉相喰う争いで皇帝になるが、その姉妹皇女も巻き込まれて、悲劇になることを、荒は描いている。
   デリーにある姉妹の墓を訪ねると、青草が生える墓であり、アウラングゼーブ皇帝の墓は、デカン高原の一角の小村の聖者の墓の一隅を間借りした、墓石だけのちっぽけな露天のものだという。私は荒の本でインド史の面白さを教わった。(未来社