湯浅学『ボブ・ディラン』

湯浅学ボブ・ディラン

  ボブ・ディランは70歳を超えたが、毎年100ステージで歌っているという。ローリング・ストーンズに匹敵する超人だ。湯浅氏の本はそのディランの少年時代から現在までの人生の軌跡を丁寧にたどった好著である。「ボブ・ディラン自伝」(ソフトバンクパブリッシング刊)と共に読むと一層分かりやすいだろう。私が会社に入った1960代に「風にふかれて」や「ライク・ア・ローリング・ストーン」がはやり、70年代には武道館でライブがあった。
  日本には同時に色んな面が輸入されたためか、プロテスト・フォークシンガーと単純に捉えられやすい。湯浅氏はその軌跡を追いながら「プロテストソング」の面は弱いとしているのが面白かった。ボブの複雑性と両義性(フォークとエレトリックギターのロック)は、歌詞を重視し、流れ出る言葉の吟遊詩人という見方の方が正しいかもしれない。「風に吹かれて」で、砂浜で安らぐため、何回砲弾が飛び、武器が永久禁じられるまでにと詠うが、その答えは風に舞っているという。湯浅氏は世相を糾弾しているのでなく、人間のやるせなさの基盤、虚無的感情を描いているとしている。
  「戦争の親玉」や「激しい雨が降る」でも、特定の人物の不正を糾弾するよりも、そうした事例で生じる怒りや煩悩のありさまを伝えるために「歌」があるというのである。ボブには社会派・活動家という意識はない。ただアメリカの60、70年代の公民権運動、ベトナム反戦運動の激動の時代精神を伝えようとしたため、「プロテストソング」といレッテルが張られた.
何故フォークにロックを混合したのも、湯浅氏の本でよくわかる。自分の感性に忠実に、独立独歩の吟遊詩人ボブの紆余曲折した人生が、この本で明らかにされてくる。固定観念ボブ・ディラン像が壊れていく。エレクトリックギターに移行した時も、キリスト教転向のときも、ボブは批判にも聴く耳をもたなかった。ボブはいう。「わたしがつくる作品はいつだって自伝的場所から生まれる」と。だが湯浅氏は、どこかに自分以外の目・視座を置いた詩作が、意識的、無意識的になされ、歌詞の特異性として表出すると指摘している。同感だ。(岩波新書