カフカ『城』

カフカ『城』

   私はカフカの小説『城』を読むと、原爆症水俣病の認定をめぐる環境省自治体の熊本県などの官僚組織が、患者から見ると「城」に見えるのだと思う。20世紀の国家の巨大な官僚組織、党組織、大企業組織の抽象的で、近くて遠くなかなか近づけない「城」になる。冷酷で自動機械的カフカの官僚制批判は、ドイツの社会学者マックス・ウエーバーの官僚制論に匹敵する。カフカは語る。(G・ヤノーホ『カフカとの対話』筑摩叢書)
   「人は都市の街路を仕事場に向かって行進します。飼養桶と満足感に向かって。それはちょうど役所におけるように、一分の狂いもなく計測された生活である。奇蹟というものはなく、正確な使用説明書と、書式と訓令の世界です。人間は自由と責任を恐れ、それ故にむしろ自分ででっち上げた鉄格子の中に窒息することを、よしとするのです。」
  『城』は不思議な小説で未完成である。測量士Kは「城」からの依頼で、雪の中の村に到着する。だが、「城」には近づけず測量依頼もあやふやになる。村での生活を始めるが、次々と事件が起こる。酒場で「城」官僚トップの恋人と突如同棲してしまう。カフカの書き方はどこかドタバタ喜劇風であり、喜劇と思ってしまう。だがKは、近くて遠い遠近法を喪失した「城」と、姿を見せない最高官僚クラムに翻弄され、宙ぶらりんで「待ち続ける男」になる。
  「城」から監視に付けられた「助手」、下級官僚やまたその下働きの職員、宿屋の二階が官僚の民衆の請願受け付けの場所だが、ここの描写は官僚組織の在り方を奇妙な風景として描き出していて傑作である。だが「城」の官僚の命令に逆らった靴職人一家が、仕事も奪われ、村八分的状況に追い込まれていく恐ろしさと不安は、20世紀文学である。民衆が、目に見えない官僚制に隷属していく姿は、利益と地位を求める欲求と比例している。
  この小説の不思議さは、女性たちの官能性が、官僚制の知的組織にばらばらにされていく男たちの絆を繋ぐ役割を、担わされていることだ。最高官僚や下級官僚の愛人になることも恐れない凄さをそなえている。フランスの哲学者ドゥルーズ/ガタリは「連結器」という言葉を使い、これらの若い女たちおのおのが、Kに援助を申し出ることを分析している(『カフカ』、法政大学出版局)そうした女性の長い「語り」で未完で、この小説は閉じられる。このあとどう展開するのかは、読者の想像力にかかっている。(新潮文庫、前田敬作訳)