ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』

ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム

  ベストセラー『薔薇の名前』の著者で現代イタリアの代表的知識人エーコの政治・社会論集である。10代のとき、ムソッリーニのファシズム時代と、その後のファシストとナチ親衛隊とパルチザンの銃撃戦を見たエーコが、20世紀末の1997年に、ファシズムを終焉したものと見ずに、「原ファシズム」または「永遠のファシズム」として考察しているのに驚く。「原ファシズム」、いまでもわたしたちのまわりに、時には,ないげない装いでいるのです」といい「無邪気な装い」でファジーな雰囲気で甦りつつあるというのである。
 エーコ第二次世界大戦以前にヨーロッパを支配した様々な全体主義政権は、歴史条件がことなるから甦らないと断言している。ムッソリーニファシズム。カリスマ的指導者、協同体国家思想、「古代ローマ帝国というユートピア」新天地獲得の帝国主義的意図、病的昂揚のナショナリズム、国全体を黒シャツ隊で編成、議会制民主主義の否定、反ユダヤ主義は、復活しないという。イタリア・ファシズムには、一貫した思想はなかったともいう。ファジー全体主義なのだ。
 ではエーコのいう原ファシズムとはなにか。典型的な特徴の組み合わせによって表れてくると指摘している。では、その典型的特徴とは。第一は「伝統崇拝」であり、モダニズムの拒否をあげる。ファシズムは、近代テクノロジーを賛美するが、あくまでも「血」と「土」を重視する。私はそれは「近代の超克」とか、「ポストモダン」と親和性を持っているのではないかと考える。たとえば、イタリア未来派など。いま日本でも「戦後近代」の克服が安倍内閣で着々と行われている。
  第二は非合理主義で、思考は去勢の一形態とみなされ、「行動のための行動」が賛美される。集団的行動主義。
  第三にファシズムは「混合主義」だから、意見対立などの差異を嫌い、区別主義からの批判精神を憎む。意見対立の異質性排除は「余所者排除」になり、社会的欲求不満は、外国人の陰謀などを生みやすい。
   第四には「質的ポピュリズム」に根ざした「大衆エリート主義」だという。原ファシズムにとって、個人的権利には意味がなく、量として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」を表す。民衆を量としてとらえても、「共通意志」はもつことがないから、指導者が「全体をあらわす一部」として、委託され通訳を装うという演劇的機能に化すとエーコはいう。
   エーコの危機感は、知識人の過剰な思い込みなのだろうかだが、まだ終わらず持続している西欧の戦争責任とファシズムへの根強い反省が、そのことにアンテナを鋭くしていることに学ぶ必要がある。エーコはいう。「自由と解放とは、決して終わることのない課題なのです。『忘れてはいけない』−これをわたしたちの合言葉にしましょう」と。さて、わが日本ではどうであろうか。近隣諸国から健忘症とみられているのではないか。この本に収録されている戦争論も面白い。(岩波書店、和田忠彦訳)