『臨済録』

臨済録


 禅仏教という。だが禅とは果たして仏教なのだろうか。『臨済録』を読むと、経典の原理主義でもないし、神秘主義でもない。私は極限まで至った「無神論」的自然宗教だと思ってしまう。言語で書かれた聖典解釈の論理主義はない。直観重視の生活体験主義である。そこから、あらゆる束縛から独立した真の自由人の境地を求める、個人の自由の体験の会得の現実肯定の思想だと思う。欧米のヒッピーなどが惹かれるのが良くわかる。
 いくつかあげてみよう。「ただ他人の言葉や外境にまどわされないようにということだ。平常そのままでよいのだ、自己のおもうようにせよ、決っしてためらうな」仏教の否定神学から、遊戯的に現実肯定に転換される。「根本の一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にはいってもとらわれることはない」無のなかで、現実肯定があらわれる。「お前たちは外に向かってせかせかと、それ禅だそれ仏道だと、名相や言句を覚え、仏を求め祖師を求め、善知識を求めようと努力する。間違ってはいけない。お前たちには立派な本来の自己がある。この上何を求めようとするのか。」
 「あるがままがよい」「清浄な本来の自己を求めよ」「仏教の究極はただ正常のままがそれである。大小便をしたり、衣服を着たり、飯を食べたり、疲れたら眠るばかりである」「たった今、自己が本来仏であり、他に求むべきものはない」「一念の疑いが大地のように凝り固まり心の自由を奪う」など。近代に成って、フロイドやユングの精神医学が、清浄な自己の本分に立ち返る禅に惹かれていったのも良く分かる。
 「宇宙間に一切の物事には、その根本にも実体はなく、またその生起の相にも実体がない。ただ仮の名があるだけだ。無意味な空名を実在と思い込む」確かに、ここには仏教的考えがある。臨済はそこから、差異や分別を否定し、無分別・無差異の平等世界に入り込む。不立文字と座禅の世界、「喝っ」と「叩く」体験。生死一如の世界。
 大正時代の宗教学者・前田利鎌は「禅門の第一義は徹頭徹尾、自由人を打出するに外ならぬ」といい、拘束されない「禅門には美しい笑いがある」と『臨済荘子』(岩波文庫)で指摘している。何物にも捉われない自由な心が生み出すユーモアと哄笑の禅の世界は、自由自在の境地なのだ。「一笑一快」。(『臨済録』朝比奈宗源訳注、岩波文庫。『禅語録』柳田聖山責任編集、「世界の名著」中央公論社