アリス・マンロー『イラクサ』

アリス・マンローイラクサ

 2013年ノーベル文学賞受賞のカナダの女性作家マンロー氏の短編小説集を読む。マンロー氏は短編小説しか書かないというが、短編一篇に一人の人間の人生が凝縮されていて、長編小説を読んだような気にさせる。チエホフに匹敵する短編小説の名手なのである。
 カナダの田舎町や都市の日常の生活という狭い世界を描くが、読んでいくと人間のもつ普遍的な理性や感性に基づく心理描写による生き方が浮かび上がってくる。主人公の人生が映画フイルムのように次々と繰り広げられていくが、長い年月のなか日常の瞬間に充実感が凝縮される場面には感動する。
 ガンにかかり、抗がん剤で頭髪がなく不快感を持つ女性が夫と自分を世話してくれる女の子の家にいき、自己中心的な夫がビールを飲んでいる時、その家の青年とドライブし沼の浮橋でキスし、温かい陽気な気分になる「浮橋」。70歳の長年連れ添った妻が認知症になり施設に入れた夫は、壮年期に女性と浮気に走ったが、頻繁に施設を訪れ妻が入院患者の老人と親密なのにやきもきしなら、初恋のような純粋な無償な愛を捧げる。最後に一瞬記憶を取り戻した妻の白髪の頭を抱きしめる充実感の「クマが山を越えてきた」。
 旅仕事で父に伴われて田舎町にきて少女と巡り合い、その時の記憶が深く少女に残り、30年後離婚したその少女が少年と巡り合い、ゴルフ場で一時のデートをするが、その男は自身の子どもを過ってひき殺した苦難の過去を話す「イラクサ」。ただ一度の不倫を強く胸の奥にしまい込み、反芻してきた女性が20後夫の死後に、事故死した不倫相手を日常の煙幕のなかで夫だったように思う「「記憶に残っていること」。高校教員の夫が思想トラブルで辞職し自殺してしまった妻が、その遺灰を沼地のある草原に撒く最後のシーンが凄い「なぐさめ」。
 マンロー氏の短編小説には、田舎育ちの女性たちが、いかに自分の人生を切り開いていくかが描かれていて、その女性心理の微妙な描写が生き生きと迫って来る。だが、私が読んだ限りではマンロー氏の描く男性は、少年は別として自己中心的で、身勝手で、繊細な心理があまりないように描かれているように思った。最初の結婚の苦難による破たんが、マンロー氏の男性観に影響しているのだろうか。(新潮社、小竹由美子訳)