青木美智男『小林一茶』

青木美智男『小林一茶

 青木氏は日本近世史の歴史学者だが、一茶の俳句に「世直し」という言葉がしばしば出てくるのに興味をもち研究を始めた。一茶はメモ魔というほど、膨大な日記、書簡、全国俳諧仲間との交流記録、作品収集さらに読書・学習記録を残している。俳句も2万句を超える。江戸・文化文政期(19世紀初め)は、江戸下層常民や農民など「野暮」という民衆、地方文化の盛んな時代であり、打ち壊しや百姓一揆など民衆運動の時代だった。私は、インターネットやソシャルメディアの現代のように、通信手段はメールのようま手紙飛脚や、動画のような浮世絵、ツイッターのような俳諧フェイスブック俳諧仲間など、さらに旅行ブーム(伊勢参りなど)で、この時代に口コミ・ネットワークの交流が行われていたと思う。
 一茶は信濃の農民でだが、その農村でも読み書きが習われ、江戸への出稼ぎが盛んだった。青木氏によれば、一茶は生涯を通じて、農民への畏敬、都市の裏長屋に住む下層民への共感、政治や経済への強い関心を持ち続けた稀有の俳諧師だという。「鰹一本に長家のさわぎ哉」。国学に傾倒し、世直し願望を詠う。同じ信濃の国学に傾倒した主人公を描いた島崎藤村『夜明け前』を私は連想した。「是からは大日本と柳哉」。
 蝦夷地にロシア船がやってくると、「春風の国にあやかれおろしあ舟」といい、蝦夷地を幕府が直轄しアイヌ民族が衰退していくことを「来て見ればこちらが鬼也蝦夷が島」と、おおくの北方への関心の俳句をつくる。
一茶の権力や権威に対する反骨精神は被差別部落への共感を俳句で詠んだり、「大名の凧も悪口言れけり」や「僧正が野糞遊ばす日傘哉」と滑稽味の句をつくり、日本一の富士山を「夕不二に尻を並べてなく蛙」と卑小な観点で見る。青木氏は江戸末期信州でも養蚕業と製糸の商品化が始まり、様々な紛争が起こり、世直し運動がでてきたことを一茶が注目していたと指摘している。「世が直るなをるとでかい蛍かな」。青木氏の新たな一茶像は面白い。(岩波新書