ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』

「単独者の文学を読む」①
ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』
 
 私にとっては、ライクロフトは老後の理想である。南イングランドの田園に隠棲し親戚の遺産(年金生活)で悠々自適の生活をおくり、家政婦一人に家事を任せ、散歩と読書三昧に耽る。おひとり様で、妻は先に死に、娘は遠方に嫁ついているらしい。コミュニティのしがらみから自由である。もちろん50歳まではロンドンで文筆活動をしていたが、この本でもしばしばその屋根裏部屋や地下室の生活が追憶されるが、貧乏生活で悲惨だった。挫折の人生だった。
 それが終身年金で静かな平和な田園美と古典の世界に沈潜し、介護もなく、認知症にもならず心臓病であっというまに死ぬ。現実には、結婚にも生活にも悪戦苦闘し、苦しんで死んでいったギッシングにとっても、ライクロフトは理想だったのではないか、春夏秋冬という四季の目次建ては、日本人には共感できる。
 ライクロフトは健康な個人主義だと思う。「単独者の文学」である。現実逃避という面はあるが、イギリス社会に対する批判も鋭い。ともかくその四季の田園の描写は素晴らしい。そのなかでの読書の楽しみは、繰り返し描かれている。読書論としても面白く読める。貧乏時代でもふらふらっと好きな本を買ってしまう。本の紙の香りがすきというライクロフトは電子書籍時代には合わないだろう。
 絶え間なく読書三昧に耽って、他人の頭脳の活躍のなかに、くだらない自分自身を放棄してしまうほうがいいという謙虚さがある。ショウペンハウワーの読書論と対極にある。年月が早く過ぎ、読めなかった書物との決別が死の床で悲しみになるという。その純粋な好奇心は凄い。
 ライクロフトは強靭な個人主義者だった。若い時の貧乏生活で民衆や大衆と付き合い観察したせいか、彼らに同情はするが社会運動に組しょうとは考えない。孤独者として、知的貴族の面が強い。だが、こうした個人主義がなければ、コミュニティや社会参加の基盤は成り立たない。安易な共同主義になる。私には、高齢化社会においてはライクロフトは恵まれた資産持ちと思えるが、もし生活が出来る資産があれば理想だと思う。(岩波文庫平井正穂訳)