合田正人『田辺元とハイデガー』

合田正人田辺元ハイデガー

1980年代には哲学者・中村雄二郎氏らにより西田幾多郎の哲学の再評価が行われた。21世紀にはいって、中沢新一氏が『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社)を書くなど、田辺元の再評価が出てきている。中沢氏はこう書く。「田邊元の『種の論理』は、ハイブリットな前対象こそがあらゆる現実の基体である、と語る哲学的思考なのである。」この合田氏の本も「種の論理」をもとに、田辺哲学とはなにかを、ハイデカー哲学との対決を軸に記述している。力作である。
 田辺は戦中に学徒動員に際して「国家永遠の創造に参加する。これは真に無上の光栄でないか」と講演するなど国民総動員を哲学的に裏付けたとして、「封印された哲学」と戦後に見られていた。ハイデカーのナチズム協力と似たような扱いである。だが、合田氏によると、田辺哲学はサルトルレヴィナスに匹敵するハイデガー哲学からうまれた欧米の理論に引けを取らない思想だというのだ。
 「種の論理」とは「個体」−「種」−「類」の三位一体のなかで、「個」である個人に対し、日本民族・国家が特殊の「種」にあたり、「類」は世界的人類という普遍になる。田辺哲学では個と類を「種」という媒介による絶対弁証法で統合しようという思想と単純化するといえる。グローバル時代の個人と国家が、いかに世界とつながっていくかとい現代の問題にも確かに妥当する。合田氏は吉本隆明の「個人幻想」−「対幻想」−「共同幻想」との類似性を柄谷行人氏を引用し指摘している。「種」は民族、家族、その上部構造の国家ということになるだが。媒介性が消えると血縁や地縁を基とした民族・国家主義になる危険性をはらんでいる。
 私にはハイデカー哲学の対決は難しく十分に理解できたといえない。それより私が興味をもったのは、敗戦後の国家主権の喪失を「無」の思想をもとに「懺悔道の哲学」と構築し、自分の罪悪(日本国家の罪悪)と責任を思想化したことである。また「友愛の哲学」を唱えたことである。自由=アメリカ、平等=ソ連の冷戦期に「友愛」を媒介にする日本を構築しようとしたことである。この「友愛」が鳩山一郎・由紀夫氏に影響を与えたという。
複雑な田辺哲学を合田氏は詳しく描いているが、合田氏の思想である「雑人論」や「多島海=群島システム論」「ディアスポラ・システム」と、どう繋がるのかをもう少し知りたいと思った。(PHP新書)