「ウルフを読む」(その2)『ダロウェイ夫人』

ヴァージニア・ウルフを読む」(その2)
『ダロウェイ夫人』

 怖い小説である。そこには生と死、正常と狂気がない交ぜになっている。その縦軸は「時間」であり、人生における若さの始まりの「青春」と、老年にさしかかる「中高年」が、ない交ぜになっている。感受性の強く瞬間に美を求め、与える人間と、世間的功利のため感受性を弱め世俗通念を重視し、自己中心にいつも受け取ろうとする人間の対位法がある。自意識と潜在意識の深淵。そこには自殺への欲望が通奏低音として響く。だから怖い。
 初夏のロンドンの美しい季節に国会議員夫人であるダロウェイの一日を、様々な人々の意識の流れを下に描いている。ロンドンの街路や公園が、これほど生き生きと描かれた小説はないだろう。ダロウェイ夫人が夜の晩餐会のために、朝自分で花を買いにウエストミンスターの自宅から出るシーンから始まる。ダロウェイ夫人がロンドンを歩きながら、その意識の流れを描いていく。うまい文章。花屋で夫人が花を腕一杯に持ち、皇室の自動車のパンクを見るとき、下の街路を戦争で神経を病んだ青年のセプティマスが、新婚間もないイタリア人妻と通りかかる。この出だし以後両人は何ら関係を持たない。狂気を抱えた青年の意識の流れと自殺願望が生々しく描かれている。
 だが最終部のダロウェイ夫人晩餐会に(この首相も出席する上流社会の晩餐会のシーンの人間関係の意識の流れの描写は恐ろしい)出席した精神医から、セプティマスの飛び降り自殺を聞く。その時夫人は、自分が自殺した若い男に似ていると思う。「彼女は彼があの行動に出たことを、人々が生き続けているときに命を投げ捨てたことをうれしく感じた。時計が鳴っていた。鉛の輪が空中に消えていった。」だが、夫人はパーティに戻っていく。空虚と不安を抱えて。
 青春時代の潜在意識がいかに中高年にまで影響をしていくかが、この小説の核になっている。それと青春期の意識を忘却して「世間形式」に入り、影響を消していく人との対比もある。若きクラリッサ(ダロウェイ夫人)と恋仲になり、求婚し断られたピーターは、感受性に富む青年だが、その後インドに行き挫折の人生を過し、いま人妻との結婚のためロンドンに戻り、夫人の晩餐会に偶然出席する。堅実な夫と過敏な元カレ、夫人と少女時代の女友達、夫人と娘の家庭教師などのその意識の流れの対位法は、この小説の白眉だと思う。(みすず書房、近藤いね子訳)