長谷川櫂『俳句の宇宙』

長谷川櫂『俳句の宇宙』

俳人が見た現代における俳句論である。実作者である長谷川氏が、自然が失われて四季も壊れつつあるとき、「季語」はどうなるのかとか、「切字」という「間」はどうなるのか、「客観写生」は必要かなどを問いかけていく俳句に対する危機感がにじみ出ている本である。具体的な俳句を挙げて論を展開しているので、読みやすい。
芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」について、俳諧という「共通の場」の重要性から考えていく。その「場」とは和歌の伝統や、当時の日本の場である「自然」観に根ざしていると指摘している。この句が革新的だったのは、蛙は必ず山吹の花と取り合わせるという和歌の伝統や、蛙は美声の鳴き声を詠むことを逆転させ「古池」をイメージしたことだという。さらに長谷川氏は「古池や」が、「に」ではない「や」という切字として解釈すると、蛙が水に飛び込む音を聞いて、心の中に古池が浮かんだという内面のイメージを詠んだと再逆転させることができるという。俳句の重層性。
 長谷川氏は、「自然」から「宇宙」へという。外なる自然宇宙と内部の心に広がる宇宙、マクロコスモスとミクロコスモスの共鳴・調和、そこから新しい季語と5・7・5のリズムが生まれてくる。宇宙はリズムと「間」によって動いている。長谷川氏は、「人体冷えて東北白い花盛り」という金子兜太氏の俳句を、「人体」を東北農民と考えるのではなく、「人体」を日本列島に見立て、リンゴの白い花が東北地方を彩る宇宙的な視野の俳句と解釈している。俳句の「場」の特殊化と細分化への異議申し立てがある。
 私が面白かったのは高浜虚子論である。戦前「ホトトギス」から同人・杉田久女除名について「黒い」虚子を論じ、虚子の「力」の表現の俳句、「いきおい」重視の俳句を分析しながら、「花鳥諷詠」と「客観描写」の虚子に、「微粒子の世界から星たちの空間まで、響きわたる巨大なオーケストラとしての宇宙」を、「花鳥諷詠」とつなげる未来性までも読み取っている。虚子の句。
「春の山屍をうめて空しかり」(中公文庫)