泉鏡花を読む(その1)婦系図

泉鏡花を読む」(その1)
婦系図

 この小説は「ハイカラなピカレスク(悪漢)小説」と述べたのは、種村季弘である。私には、デユマの「モンテクリスト伯」のような「倍返し」の復讐譚とも読めるし、スチーブンスンの「ジキルとハイド」の二重性格の物語とも読めた。主人公・早瀬主税は、表面は文明の知識人・ドイツ文学者だが、裏面は人妻を手玉に取る色悪であり、孤児で少年期は隼の力というスリで、酒井に拾われドイツ文学者に育てられる。この小説の一場面が「湯島の境内」として劇化され、主税が師の文学士・酒井俊蔵にいわれ、同棲していた芸者・お蔦と無理やり別れる場面のみが有名になったが、どす黒い凄い小説なのである。
 文明開化で西欧知性を身につけ、立身出世し権威をもつ医学士・河野一族と、江戸末期・幕末の心性をもつ虐げられた疎外者の「文明の衝突」が底流にある。その二重性が早瀬主税に具現化されている。前篇は知性の人早瀬が、師に同意し芸者と別れ、師の娘妙子への河野一族からの縁談を妨害したため、謀略で東京を追われ、静岡に落ちゆく。婦系図とは、妙子が酒井の正妻の子でなく芸者の子だと、早瀬が知っていたから、河野に調査されると、師の名誉に関わると思ったからだ。
 ところが、後編になると、ドイツ語塾を開きゲーテを論じながら、早くも復讐のため早瀬の「悪」が、河野一族の良妻賢母主義や文明主義に牙をむく。この突然の分裂転換に驚く。ジキルとハイドのようだ。
別れたお蔦は肺結核で早瀬と会えずに死んでしまうし、早瀬は河野一族の棟梁英臣と久能山の断崖で対決し(日本のテレビ・サスペンスの最後の断崖シーンを先取りしている)河野はピストルで早瀬を撃とうとするが失敗し、自らの頭を撃ち抜き果てる。早瀬は謀略に使った毒薬ではて、誘惑された河野の二人の姉妹は断崖から身を投げる。この結末は江戸期の草紙のようだ。師の尾崎紅葉の「金色夜叉」も高利貸になった間寛一の復讐譚だが、鏡花のほうがどす黒い。反社会的であると思う。(ちくま文庫、「泉鏡花集成12巻」