堀辰雄『風立ちぬ』

堀辰雄風立ちぬ

 宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」に刺激され、堀辰雄の小説を読む。この小説は「愛と死」の物語とも、「喪失と再生」の物語とも読める。筋は単純で、妻(許嫁かも)が病魔に犯され、八ヶ岳の見える高原の療養所にはいり、夫が付きそい看病するが、妻は死んでいく過程を描いた物語である。ヴァレリーの詩「風立ちぬ いざ生きやめも」で始まり、リルケの鎮魂歌「私は死者達を持っている」で終わっている。
 軽井沢の高原の四季の描写の美しさと、死に至る病に冒された恋人達の命の、かそけき悲惨の描写が、対位法の音楽のように、旋律を響かせる。「風」が死のシンボリクな響きで吹いてくる。冒頭夏の終わりの軽井沢で、まだ病気に冒される前の恋人二人が絵を描いていたとき、不意に何処からか風がたち、画架をぱったりと倒す。妻がサナトリウムで見る夢にも、死んで棺に入り暗い樅の木の中を運ばれていくとき、「きびしく吹いて過ぎる風の音」を聴く。妻の死後、再度訪ねた軽井沢で、教会の神父のいう「美しい空は、風のある寒い日しか見られない」という言葉も響く。
 夫は、二人が幸福だったときの物語を書こうとする。数年前は愛し合う二人が、冬の寂しい山岳地方で、世間から離れお互いが切なく思うほど愛し合う夢を抱いたが、現状は死に至る山の療養所生活であり、妻のことよりも自分の夢物語を書くエゴに耐えられず「物語の挫折」になる。妻が、死に至るまで夫を思う言動には涙が出る。
 「幸福の谷」を「死のかげの谷」という夫が、妻の死の3年後の「再生」の物語は、私には弱いように思えた。それだけ死の観念が強いのかもしれない。死後孤独な一人暮らしができるのは、妻の無心の愛のお陰だという妻への愛の確認が「いざ生きめやも」であり、「幸福の谷」の再生になるというのだ。
この小説が書かれた年に日中戦争が始まり、数年後には日米戦争という「死の季節」が始まる。堀の「愛と死」の物語は、何十万人に拡大する。病死から戦争死になる。日本社会の「物語の挫折」は、敗戦で実現する。堀辰雄は結婚し、戦後まで生き、50歳で死ぬ。(筑摩書房現代文学大系35巻)