城山三郎『そうか、もう君はいないのか』

城山三郎『そうか、もう君はいないのか』
 
 長年連れ添った妻が自分より先に亡くなる時、老年をむかえている夫の喪失感は深い。
城山氏のこの手記は、68歳の時にガンで死んだ妻との出会いから、長年の結婚生活を、自分史を交えながら、描いていく。その7年後に城山氏も亡くなり、遺稿の中から娘さん(井上紀子さん)が見つけ出し本になった。井上さんはこう書いている。「現実の母と別れ、永遠の母と生きてゆく、自分の心中だけで。この直後から父は現実を遠ざけるようになった」と。だがこの本は喪失感の中で書かれたとはいえ、淡々と妻との出会いから死までの記憶を、ユーモアたっぷりに綴られている。やはり小説家だと思わせる。死の直前までの妻の姿が、現実にそうだったのだろうが、とても明るく愉快である。本当の悲しみは、ユーモアを誘い出すと思う。挽歌はユーモアと裏表である。不条理には距離をとってユーモアで対処するしかない。正岡子規の俳句にように。
 4歳年上の夫は、まさか妻が先に逝くとは思いもしなかったという。死は受け入れたものの彼女はもういないという不思議な気分。妻に話しかけようとして我に返り「そうか、もう君はいないのか」となお話しかける老いた夫の姿がさらりと描かれている。妻の死後、不眠と酒ひたりになるのもよくわかる。だが城山氏はこの本を書くことにとって、救われていったのではなかろうか。愛は死よりも強い。夫婦の「失われた時を求めて」にならずに、「共同存在(共生)の時の喜びを求めて」になっている。
高齢化社会のいま、伴侶に先立たれる人々は多くなっている。悲しみと苦しみと孤独と喪失感。そのとき共に存在した喜びの記憶が、いずれくる自らの死への恐怖の抵抗感を作り出してくれる。この本は、そうした伴侶をなくした高齢者への激励にもなっている。(新潮文庫