倉本一宏『藤原道長の権力と欲望』

倉本一宏『藤原道長の権力と欲望』

 ユネスコの「世界記憶遺産」に、「慶長遣欧使節関係資料」と平安時代摂関政治時代の藤原道長の自筆日記「御堂関白記」が登録された。倉本氏はこの「御堂関白記」を詳細に読んで現代語訳を成し遂げ、この本では道長という平安朝最大の権力者の実像を描いている。そして「剛胆にして小心、磊落にして繊細、親切にして冷淡、寛容にして残忍、涙もろくよく怒る、冗談好きで愚痴っぽい」という矛盾し複雑な道長の実像を炙り出している。同時代の「紫式部日記」とともに、ちょうど1000年前の平安貴族の姿が見えてくる。
 倉本氏によれば、前近代に外国では為政者が自ら日記を書くことはほとんどないという。中国では皇帝に史官が「起居注」として動静を記録する。貴族も漢詩や散文で自分の動静や心情を述べる。だが日本では女性日記文学だけでなく、多くの貴族が日記を書いた。この本でも、同時期に書かれた藤原実資小右記』や藤原行成『権記』がふんだんに引用され、道長に対する批判もきちんと書かれている。その理由を倉本氏は、政務や儀式の先例の備忘録として子孫に伝える意図があったためと見ている。だが道長の『御堂関白記』は後世に伝える先例の記録でなく、自らのための心情吐露の日記だった。表紙には「披露すべきに非ず、早く破却すべき者なり」記してあり、残ったのは奇跡である。
 長和3年(1014年)の日記はまったく欠けているが、この年は孫を天皇位につけ摂政になろうとした野心をもつ道長が、確執があった三条天皇に譲位を迫っていたときであり、破却された可能性を倉本氏は指摘している。ともかく自分の娘を皇后にし、その孫を天皇位にして権力を握るという日本独特の平安朝貴族の権力野心は、『御堂関白記』の随所に見られる。政略結婚だけでなく、死穢や物怪さらに皇居などの放火、邪魔する中宮や皇子の排除、人事異動による政敵排除など、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたる事も 無しと思えば」の世界の凄まじさも窺える。血縁と姻戚とセックスと出産の操作という「生権力」の起源がある。倉本氏も道長が「この世」と思っていたのは、京都宮中だけの世界だという。ここに日本私小説の源流があると私は思った。道長没後東国では平忠常の乱、後三年の役が起こり、摂関政治から院政に、源平時代へと移行していく。(文春新書)