中島岳志『秋葉原事件』

中島岳志秋葉原事件

 2008年6月秋葉原で無差別殺人事件を起こした加藤智大の軌跡を、生い立ちから事件まで取材し、裁判証言も丹念に傍聴し、なぜ事件を起こしたかを綿密に描いたノンフィクションの傑作である。当時「派遣切り」と「ネット掲示板」さらに母親の「虐待的教育」などが問題になった。中島氏は文庫版あとがきで、「加藤にとって、社会から切り離され孤立することは、生きる動機の喪失を意味した」と書き、裁判でも、加藤の著書でも「加藤は自己と対峙することから逃げ続けている」とも述べている。だが私は、この本をよんでも、なぜ無差別殺人にいきつくのか依然としてわからなかった。おおくの複雑な要因があるとしても。動機探しは無意味であり、単純化がありえないとしてもわからない。
 中島氏は加藤の「言葉」への敏感さに重点を置いて書いている。リアルの世界のスタートで、母の暴力や作文の検閲までされ、本心がいえなくなり、言葉を奪われたために、逆に言葉に敏感になった。リアルな社会では、かれの「本音」の言葉を受け止めてくれる者はほとんどいず、「建前」の言葉の交換だけで、友達がいても孤独だった。中島氏によると、加藤は対面的コミュニケーションを軽視し、キレて「行動でアッピール」するという突発的行動で、他者に気づかせる習慣を身につけたという。
 他方、リアルな身体性がないネット掲示板に本音の言葉を求めたと中島氏はいう。加藤のネット掲示板への執着には驚く。掲示板の管理者や女友達への訪問も行うし、「ネタ」としての自虐的、アイロニカルな自己表現で、自己の「本音」を読み取ってもらうとする付き合う人への期待の大きさにも驚く。「本音」はネタで「本心」はベタというネジレ現象も強い。秋葉原事件決行は派遣切りよりも、ネット上で偽者や荒らし者がでて、加藤が無視されたところに引き金があるという論にも納得がいく。ネット掲示板で本心の言葉を読み取って貰い、孤独から、社会からの疎外から回復すると、加藤は本当に思っていたのだろうか。わからない。
 言葉不信よりも、言葉過剰が、暴力に短絡することはあるだろう。ネタがベタ化してしまうこともあるだろう。だがそれが不特定多数への無差別殺人に行き着くのがわからないのである。加藤には本当に殺したい人はいなかったとも思える。自分以外には。それとも不特定・匿名無差別のネット社会への「行動でのアッピール」だったのだろうか。文庫版解説の作家・星野智幸氏の「身体性が消えているネット世界でネタ感覚のまま、他者にベタな暴力を向ける」という指摘も考えさせる。(朝日文庫