村上春樹『若い読者のための短編小説案内』

村上春樹『若い読者のための短編小説案内』
 村上氏はアメリカ文学の翻訳者であり、40歳まで日本の小説をあまり読まなかったという。この本もアメリカの大学での日本短編小説の案内だが、村上氏の日本の小説観がでているし、村上文学の創作の在り方も見て取れる。村上氏は自然主義も、私小説も駄目で、太宰治三島由紀夫もどうしても体が入っていかないという。政治的で問題意識が鮮明な大岡昇平野間宏など「第一次戦後派」よりも、非政治的で日常的な作風の「第三の新人」に親近感を抱いている。だからこの本でも、安岡章太郎吉行淳之介小島信夫庄野潤三が取り上げられ、丸谷才一長谷川四郎の短編も扱われている。
 村上氏は、それらを「外界と自我(エゴ)と自己(セルフ)」の三者のせめぎ合いという緊張関係で説いていこうとする。たとえば、吉行の短編「水に畔り」では、頻繁な移動(私には「逃亡」ととれる)で自分の位置をずらしていくことで、外界との正面的対立を回避することによって自我との正面衝突も避けているとみる。「逃亡する」という文学的技巧性を洗練させ、私小説的な自我(エゴ)の生の形の対決を避けるから都会的になる。
 小島の短編「馬」を論じて、主人公は自我を不鮮明にすることにより、自己防衛をするという。反カフカ的だ。自分のまわりに強固な外壁を築き上げ、外部からの力を排除することにより、内部のエゴからの力を鎮めようとすると指摘している。だが外部からの力が壁を崩そうとし、主人公は走り回って裂け目を補修する滑稽さが小島文学にはあるともいう。安岡の「ガラスの靴」を論じて、いかに遠くまで現実から逃げられるかというファンタジーの世界とみている。外界と自我、内圧と外圧を技巧的に排除しようという不可能さを小説的に可能にしょうとするというのだ。
 村上氏はユング的な自己(セルフ)と自我の識別がつきにくく、それにより外圧は記号化され平穏になっていくことを、庄野潤三の「静物」で証明しようとしている。初期村上文学の創作が、これらの「第三の新人」の延長線上にあるのではないかと私はこの本を読んで思った。現実や自我から、逃げられなくなった時、安岡は家族の歴史(「流離譚」)へとシフトしたが、村上氏は、より「ファンタジー=物語」の世界を深めていったのではないかと私は思う。
 だが、逃亡論が、社会に向き合うとき、ファンタジーロマン主義的な形をとることは、オウム真理教で実証されている。村上氏が「アンダーグランド」などでオウムを取り上げたのは、その共感からかも知れない。(文芸春秋