サルトル『自由への道』(その1)

サルトル『自由への道』(その1)
「分別ざかり」
 第二次世界大戦の寸前の1938年6月の3日間のパリで、34歳の自由を信条とする高校哲学教師マチウを囲む複数の人々の内的モノローグで構成された小説である。様々な自由が「分別ざかり」の人々を彩ると大江健三郎氏は述べた。(『厳粛な綱渡り』講談社文芸文庫)三人の登場人物(マチウ、ブリュネ、ダニエル)を分類し、マチウをあいまいで、選択することができるにもかかわらず、決定的に選べない、行動しえない人物としている。この訳者・海老原武氏は、詳細な解説のなかで、この小説の性格の一つとして「青春」の季節は抜け出したが、「大人=分別ざかり」に、足踏みをしている「モラトリアム小説」と位置づけている。「猶予」とか「待機」という言葉も度々でてくる。フランス自体がナチ・ヒットラーとの戦争開始の猶予の時期でもある。
 加藤周一氏は、サルトルにおける「自由」は選択の自由だという。(『サルトル講談社)だが、この世界では意識的選択の自由の範囲は制限され、排除された選択を可能にするには、そもそも世界を選び直さなければならない。自由は「格子ない檻」かもしれない。マチュウが左翼のブリュネにスペイン市民戦争に参加しないかと誘われる。「自由」か「意味」か。生きる意味に参画するアンガージュは「自己拘束」でもある。自己拘束よりもモラトリアムにこだわるマチウは、恋人に妊娠を告げられ、結婚は自由を喪失するとして妊娠中絶を選ぶ。この小説は中絶の倫理意味と、その金策にパリを駆けめぐるマチユウの行動が延々と描かれる。
私が興味深かったのはダニエルである。同性愛者であり、常に自由の極限としての暴力的破壊=死を意識し、拒否的・否定的な「無」への選択を行おうとする。選択が許されないと知るからこそ選択していく悪の自由の持ち主である。他者の「まなざし」や、賭という偶然性・意外性の選択が自由だというダニエルは、実存的悪の自由の道を指し示している。人間の自由にある実存的な矛盾性が、ダニエルによって示されていると思う。20世紀において自由とは何かを描いた全体小説でいま読んでも価値がある。(岩波文庫・1,2巻。海老坂武・澤田直訳)