太田博太郎『日本の建築』

太田博太郎『日本の建築』
日本建築の歴史から文化を論じている。古代の古墳時代の建築については、貴族階級の高床建築からくる板敷きの切妻造と、竪穴住居からくる土間の庶民住宅の寄棟造りの二系統からなると太田氏はいう。古代に中国からイスが伝わったが、日本に定着しなかつたのは、すでに高床で板敷きだったからという説明は面白い。畳敷きはずーと後の時代だからだ。
 太田氏の日本建築史には、社会生活との関連から説かれており、二項対立的な視点が強いのが特徴である。たとえば「和様と宋様」では、鎌倉時代興福寺の和様と東大寺の宋様(中国様式)の相克として描かれている。それは、寝殿造と書院造との相違と対立から、桃山時代安土城の豪華絢爛な建築と、民衆の住宅から派生した簡素でミニマルな千利休の茶室建築の相克まで貫徹している。
私が面白かったのは、金閣銀閣の建築論のなかに、高いところからの眺望の欲望(スカイツリーなど塔眺望)が、やっと中世になって中国の楼閣建築として禅宗の影響で金閣銀閣で作られ、城の天守閣に発展するという見方である。日本でも寺院建築に五重塔があるが、眺望のためではない。金閣銀閣スカイツリーの原型と思うと親しみを持つ。何故高いところから眺めるのが好きなのかは、禅宗という宗教的願望とそこでの祝宴から生じているのかもしれない。
城郭建築というと、天守、矢倉、石、土塀などを思い浮かべるが、太田氏は城の中の居住建築に注目し、二条城二の丸書院が、現代まで続く書院造の原型としている。室町時代に床の間や違い棚などの座敷飾りはここまで遡れるという。また茶室の数寄屋造は、武将による豪華な桃山様式に対抗して庶民の民家から出てきたとしている。桂離宮、戦国武将などに疎外された公家階級の民衆願望から出てきたという視点も、ハッとさせられる。建築史だけでなく、日本文化史として様々なヒントが詰まった本である。(ちくま文庫