堀米庸三『正統と異端』

堀米庸三『正統と異端』

ローマ法王フランシスコ一世と決まった。フランシスコが13世紀に清貧の原始キリスト教使徒的生活を唱え、高位聖職者の世俗的腐敗に満ちていた教会を批判し、当時のローマ教会が容認しなかった新宗教運動の教祖だったことを考えると驚きである。堀米氏の本は、1210年にフランシスが、中世ローマ法王権の歴史で権勢をもったイノセント三世との会見から始まり、それを世界史的出会いと評して、正統・異端闘争として、中世ヨーロッパ史を描いた。私はこの本を読み、16世紀の新教と旧教に分裂する宗教改革が、すでに11世紀、12世紀の中世時代に巨大なキリスト教会のなかにも渦巻いていたのだと思った。
ヨーロッパ史を彩るのは、法王権と皇帝権の二重構造であるが、堀米氏はじつはこの構造は相互依存的であり、高位聖職者という封建貴族が、托鉢修道会など民衆的運動を取り込もうとする法王にたいし、国民的王権と結び、この二重構造を骨抜きにし、近代国民国家に一元化していくと見ているようだ。とすれば異端とされる新宗教運動のエネルギーが中世を内部から壊し、さらにルターに始まるプロテスタント宗教改革の原点にもなっているのかもしれない。
ローマ法王がいかに聖職売買や世俗的利権にまみれたキリスト教会を改革しようとして、グレゴリウス改革を行い、聖職売買の司教から洗礼や叙品を受けた信者の秘蹟は有効かの秘蹟論争を綿密に堀米氏は辿っている。原始キリスト教の「原理主義」である新宗教運動を法王庁がいかに取り込みながら権威を維持しようとし、逆に高位聖職者の巻き返しで職務階層性の教会官僚制を確立していったかが、堀米氏の本でよくわかる。この教会官僚制が16世紀の宗教改革で再度問い直される。現代のフランシスコ一世が、清貧の尊重を唱えたフランシスの使徒主義とカトリック教会の腐敗を再び改革するのだろうか。
この宗教と異端の原理主義の問題は、中世キリスト教におけるカタリ派やワルド派、謙遜者団、修道会少数派だけのことではなく、現代のイスラム教の政治と宗教の相克にも通じているのではなかろうか。1960年代にでた本だが、西洋中世史学の古典である。(中公文庫)