スーザン・ソンダク『写真論』

スーザン・ソンダク『写真論』
写真論は多くある。私が古典として記憶するのは、ベンヤミン『写真小史』とロラン・バルト『明るい部屋』(いずれもこの読書日記で取り上げた)それにソンダクの『写真論』である。1970年代の本であり、その後のカメラ技術の発達、携帯撮影、ネット動画、監視カメラの隆盛の寸前の写真・映像文化論だが、いま読んでも読み応えがある。
この本には20世紀の写真家についての評論も取り上げられている。スタイケンやアッジェ、ダイアン・アーバスマン・レイやウエストン、ブレッソンなどで、それぞれ面白い。だがソンダクは写真・映像時代の20世紀の社会状況(アメリカ社会)を活写して、写真的見方とは何かを考えようとしている。写真は証拠であり、記録であり、メディアであり、肖像であり、芸術である。ソンダクはいう。「写真は日常経験の材料を再定義する以上のことをなし、私たちが全然見ることのない膨大な量をそれに加える。あるがままの現実は展覧会の項目として、精査に供される記録として、また監視の目標として再定義される。」その上でソンダクは写真による世界の探検と複製は、連続したものを断片化し、それによって以前の情報記録制度では思いもよらない支配の可能性を与えるという。現代監視カメラ社会を予見している。
私が興味深かったのは、ソンダクが写真を挽歌とか喪失とか、死を連想させるものととらえていることだ。美しい被写体も年を取り。朽ちて、いまは存在しないため、はかなさや無常の不在の証しとなる。時間の明確な薄片で死の運命を連想させる。それは人体写真だけではない。過去が歴史的変化が加速するにつれ、超現実的な主題になって、消滅していくものに新しい美をみることを可能にする。写真家は当初から消えてゆく世界を記録する仕事をしていた。写真の偶然性は、もの皆滅びるということを確証しており、写真の証拠の任意性は、現実とは根本的に分類出来ず、偶然の断片の組合せになるというのだ、私も妻が死んだとき、生前の妻のスナップショットのアルバムを作った。
ソンダクはもう一つ写真の平等主義・民主主義をいう。がらくた、醜いもの、きずもの、はんぱもの、低俗作品への写真家の根強い好みをも挙げている。(アーバスの写真など)アメリカが写真映像社会になった心性がそこにあるというのだ。(晶文社、近藤耕人訳)