『ギリシア悲劇Ⅰアイスキュロス』続

ギリシア悲劇アイスキュロス』続
 ペルシア人
 アテナイアイスキュロスは、対ペルシャ戦争のサラミス海戦でペルシャ海軍と闘った愛国者である。それが敗者ペルシャ側から、その敗戦が伝えられる王宮の場面から始まり、登場人物は総てペルシャ人になっている。第二次世界大戦の日本の敗北場面をアメリカの劇作家が、天皇家のシーンからはじめるようなものである。悲劇だから、敗者側から描いた方がいいという単純なものではなく、ギリシアにも必ず敗者の時が来るだろうという「未来の予言」さえ含まれている。
敗者の悲惨と嘆きは、王クセルクセスの母皇后のセリフに痛切に現れているし、、サラミス海戦の生々しい描写は、さすが実戦に参加しただけあって素晴らしい。クセルクセスも、敗残の将として登場するが、私が面白いと思ったのは、すでに死んでいる父王ダレイオスの亡霊が登場する場面である。それは、日本の能の亡霊のようである。このダレイオスの亡霊が述べるセリフが、アイスキュロスの思想だろう。
 「累々たるしかばねは三代の子孫にいたるまで、その目に声なき戒めとなるだろう。生身の人間は増長してはならぬとな。うぬぼれの花開けば災いの実となり、そこに恐ろしき苦悩の取り入れを刈り取るのが習いであるからな。」
 これは史劇だが、それだけではない普遍思想を示している。ナショナリズムの「おごり」と「迷妄」は罰を受けなければならないという観念と、謙虚な平和主義が世界秩序でなければならないというアイスキュロスの主張である。(中村善也『ギリシア悲劇入門』岩波新書)私は同時に反戦劇としても演じられるとも思った。
「縛られたプロメテウス」 
 この劇はアイスキュロスの実作か疑われているが、この文庫には収録されている。人間に火という技術を与えたため、ゼウス神に捕らえられ岩山に縛り付けられる業苦を味わっているプロメテウスのドラマであり、思想劇ともいえる。私はこの劇を読むと、核開発により核爆弾を創造したオッペンハイマーなどの物理学者の劇と感じてしまう。人間に火という技術を与える是非について悩むプロメテウス。その巨神さえ「技術というのは、必然の定めに比すれば、はるかに力が弱いものだ」という。津波原発を思う。
フランスの思想家・モーヌ・ヴェーユは、その著作『ギリシアの泉』(みすず書房、富原真弓訳)で、「人間は望みもしないことを堪え忍ばねばならない。自らを限定された依存的存在であると考えることを学び、それはひとり苦しみのみがこのことを教える」とこの戯曲について述べ、アイスキュロスは「苦しみを通じて知る」を教義にしていると述べている。(ちくま文庫