村山斉『宇宙になぜ我々が存在するのか』

村山斉『宇宙になぜ我々が存在するのか』
 宇宙の起源を素粒子学から探求した本である。我々の身体は元素で出来ている。その元素も何十億年も昔に爆発した超新星の屑からできた。宇宙がビックバンで始まった一秒間は星の基になる水素もなく、100億度以上のなか、原子を作る陽子も中性子もバラバラになり、電子、クォークニュートリノ、光子、グルーオンといった素粒子のスープだったと村山氏はいう。誕生当時の宇宙は原子よりも小さく、そのクシャクシャにまるまった宇宙にインフレーションが起きて、、そのあとビックバンが起こったともいう。そのエネルギーから物質が出来るとき、必ず反物質とペアで生じ、物質と反物質が出会うと、ペアで消滅してエネルギーになる。
 我々物質が残るためには、物質と反物質のペアの対称性が崩れなければならない。村山氏によると、約10億分の一個だけ反粒子を粒子に変えることで、ペア消滅しても、粒子2個が生き残り、星や銀河、人間へつながつていくという。そのとき活躍するのがニュートリノである。反ニュートリノと物質ニュートリノのバランスが崩れ、物質が残ったという。この本では、ニュートリノがその鍵を握っているとして、詳しくのべられていて、面白い、
 さらに宇宙が1億㎞まで大きくなったところでヒッグス粒子が温度が下がったため凍り付いて、粒子の世界が秩序化し、、多くの素粒子に質量が与えられたと指摘している。ヒッグス粒子といえば、2012年にその加速器内で二つの陽子を衝突させての大発見が話題になった。村山氏は、ヒッグス粒子もやさしく解説していて分かりやすい。
 いまや素粒子だけでも100種類を超えているという。ましてビックバンはこの地球上では、再現は不可能である。だから物理学者は巨大な加速器装置で、部分的再現をしようとしているが、その困難さははかりしれない。数学者は脳内で、無限の虚数まではじき出して、宇宙に迫ろうとしているが、形而上学の世界に入ってしまう。古代ギリシアの原子論から、近代西欧の素粒子論という無限の探求はどこまでいきつくのだろうか。素粒子還元論の危うさも感じてしまうのは、核時代の被害妄想なのか。人間の脳構造には限界があり、その円環をグルグル廻っているのかもしれない。
 素粒子という想定は果たして真理なのだろうか。かって光は粒子か波かの論争があった。いま超ひも理論もある。素粒子論の部分的利用技術が、核融合や物質消滅という人類の危機を招く領域まで突入しているのではなかろううか。それが、人類の脳の宿命なのかとも思う。(講談社ブルーバックス