伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないのか?』

伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないのか?』

 伊東氏は、作曲家であり演奏家である。同時に東大理学部で物理学を専攻し大学院で博士論文まで書いている。この本の特徴は、音楽を西欧音楽理論や、音楽史だけでとらえるのでなく、物理学や生物学、脳認知科学の基礎研究で探求しようとしていることだ。さらに面白いのは、伊東氏の作曲技法と基礎研究の行動性である。17歳から始まるその探究の旅は、世界の作曲家ジョン・ケージバーンスタインブーレーズシュトックハウゼンなどのもとに教えを請うその積極性である。小澤征爾小田実のような行動知性を感じた。
 この本には多方面にわたる音と音楽の考察が詰まっている。とともに、伊東氏の作曲家としての苦闘が自分史的にかかれている。私が面白かったのは、聴覚はいかに生まれたのかということを、耳と脳の構造分析から、両耳で聴くとはどういうことかを生物学で解こうとしている点である。そこから、音楽は脳の問題であるという方向で認知科学での音と言語音の分析にまで踏み込んでいく。歌はなぜ言葉より記憶に残るのかでは、音の周波数をもとにしたスペクトルによる伝統音楽の「虹の理論」から、動的で非線形な音声をもととした「滲みの理論」に伊東氏は目覚めていく。そこから「響き」の重視や「空間音楽」という発想が生まれてくる。
 器楽的発送で抜け落ちるのが空間だというのもハッとさせられる。ロマネスク建築の残響が残るところで生まれた「グレゴリオ聖歌」が、イスラム建築のゴシックの光の建築で失われたという見方も反響という「音の鏡」から解かれている。そこからワグナーのバイロイト祝祭劇場の音響空間や、建築音響の脳認知モデルの安藤四一さんの理論まで行き着いている。現代音楽の本だが、様々な現代思想のヒントがこの本にはある。(NHK出版)