斉藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』

斉藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』

勤務医として「ひきこもり」の青年たちの治療に携わっている精神医学者のひきこもり論である。この本の特徴は、斎藤氏のひきこもりは治るという治療方法であるとともに、ラカン、クライン、コフート、ビオンの精神分析論からひきこもりという人間精神を明らかにしようとしている点である。理論と臨床経験が融合している。現代日本では、若者が弱者化しており、35歳まで若者概念が広がってきている。斎藤氏は「成熟」という考え方を、コミュニケーション能力と欲求不満耐性にあるという。前者は単なる情報伝達能力ではなく、相手の感情を適切に理解し、相手に自分の感情を十分に伝達することだという。後者は欲求の実現を待てるかどうかであり、何か欲しい時、その実現を楽しみに待ち、キレナイことだという。対人関係がかけているのがひきこもりという精神状況ということになる。
 ラカン精神分析では、子供が鏡をみることにより、初めて自分の全身像、全体像を発見し、自己愛の基礎になる。「自分―鏡像」があるが、それを承認してくれる母親の存在が必要になる。母親が鏡像になり母子密着の二者関係の密室ができると、ひきこもりや、攻撃性の温床になる。ひきこもり家庭の二者関係を三者関係に変え、家族が鏡像でなく「他者」関係になることが、ひきこもり治療に必要となると斎藤氏はみる。第三者は友人でも、ペット動物でもいいし、「ルール」でもいい。家族が「他者」として振舞うには「会話」が大切になる。ラカンは人間の心は「言葉」で成り立つとし、言葉のネットワークを「象徴界」といい、言葉という第三者をいれることにより、家族が「語る存在」になり、鏡像としての家族が個人対個人としての家族にかわっていく。斎藤氏のひきこもり治療法にはラカンの影響が大きいことが、この本を読み分かった。
 この本には、家族論から、友人論、社会集団論までふくまれており、読んでいると様々な示唆を与えてくれる。「安心してひきこもれる環境を作ることから」や「欠点と自己愛を大切に」など、ドキッとする逆転発想もある。「治る」とは「自由になること」という斎藤氏は「意外性」の効能も説いている。誰でもひきこもりの欲求はあるものだ。そう思って読むと、興味深い自己発見がある。(ちくま文庫