赤坂憲雄『3・11から考える「この国のかたち」』

赤坂憲雄『3・11から考える「この国のかたち」』

 東北学を提唱してきた赤坂氏が、東日本大震災後の東北を歩き、現在の東北は50年後の日本だという視点で考えた東北論であり、示唆に満ちている。南相馬市小高を歩き、水田が泥の海になった原風景から入会地の思想を導き出す。津波に現れたムラの姿の歴史を古地図などを参照しながら、海辺の「潟」や「浦」が近代に干拓され、埋立地になり、水田や住居地、鉄道駅、空港、学校が作られ、それが大震災の津波で元に戻った状況を描く。「潟」の運命に海岸線の「近代化」の人工的自然との境界線の問題を指摘し、また水田に帰す不可能性から、入会地として再生可能エネルギーの基地にすることを提案している。
 自然との境界領域の根底的再編は、東松島市の野蒜から松島湾を歩く時にも示されている。60年足らずの海辺の新開地を舐めつくした津波の甚大な被害から「時の試練に耐えた場所」にすることを考える。6000年前の縄文人貝塚が「縄文海進」に耐える場所に作られ、今度の津波貝塚が残ったり、地域の氏神の神社が高台で残ったりしていることを赤坂氏は指摘している。明治維新東北開発の近代化として近代的な野蒜港湾築港プロジエクトが」台風災害で破綻すると、緊縮財政で放棄され、塩田事業になり、それが食糧増産で水田に変わり、津波でもとの湿地や潟へと押し戻される。それは福島原発が塩田から原発へと変って行くのと同じ歴史でもある。赤坂氏は人と自然の境界領域に目を凝らす必要を痛感している。
 この本で重要な視点は、民俗芸能の復活が犠牲者の鎮魂とコミュニティの再生の象徴になっているという考えである。遠野市から宮古、山田、大槌、田ノ浜を歩き、柳田国男遠野物語』を基点に過去の三陸津波を考え、南三陸町津波の瓦礫の中から「鹿踊り」の泥だらけの装束を探し出し、鹿踊りを復活させコミュニティ再生の一歩になつたことも、鎮魂と供養の核として赤坂氏は重要視している。50年後に超高齢化社会で人口8000万人の日本になるとき、高齢社会を襲った大災害の復興は、大きな未来の行く末を決めるだろう。(新潮新書